◎トイレトレーニング雑感(1)ーーー 「コソダテ」と「目標」の話。

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(写真は、間に合わなくてトイレの前で出ちゃったときに、ついでに廊下を拭き掃除したときの、奮闘の様子。笑)

 

春ですね。

あたたかくなってきたし、進級もしたしで、トイレトレーニングを考え始めるパパママも多いかもですね。過去の投稿を再掲して欲しい、という声をいくつかもらったので、ブログに転載してみます。

 

ーーー 2014年8月の投稿を再掲 ーーー


娘氏(3才4ヶ月)の紙おむつ卒業が、どうも完了したっぽいのだが、親としては、本当にラクチンなトイレトレーニングだった。娘氏が特別にシモの始末が良くて一切の失敗をしなかったわけではなく(そんなわきゃないw)、きわめて標準的なのではないかと思う。

 

ただ、主導したのは本人であって、わたしではない、という点において、本当にラクチンだったし、ほとんどストレスを感じなかった。それで、一連のトイレトレーニングを通じて改めて再確認したことを書いてみる。

 

 

コソダテが始まった当初から、仕事とコソダテは「コソダテには目標がない」という点で「根本的に」違う、と感じていた。で、この「目標を持たないコソダテ」は、いろんな意味で効果的なのではないかと、トイレトレーニングを通じて改めて思った。

 

仕事には、目的に応じた「目標」がある。「いつまでに」「何を」「どの程度」やろうね、という目標に向けて、各種リソースの効率的・効果的な配分を考え、プロセスをデザインし、その進捗を管理し、軌道修正しながら、品質を保証し、目標を完遂して、関わる人の120%の満足に到達したいものだ、というのが仕事的日常。笑

 

成果(目標の達成)に向けて、自分がしっかりハンドルを握っている感じだ。もちろん、共に働くスタッフの主体性尊重は大前提だし、ある程度ハンドルを握ってもらう場面もあるけれども、わたし自身が、成果へのコミットメントを免除されることは、皆無(音量最大w)!!!前提として、とても楽しいものだが、同時に緊張感もあるし、それなりにストレスもある。

 

で、コソダテが始まってみて、「自分がコミットすべき具体的な目標がない!!!」ということに気づきまして、「ナニコレ、すごい気楽じゃん!!!」と思ったわけです。

 

コソダテには、まあ、目的のようなものはある。それは夫婦で合意した(娘本人とは合意していない)ゆるい基本方針のようなもので、それに基づく「目標」、すなわち、いつまでに、何を、どの程度、という成果設定は、わたしたち夫婦が定めるべきものではないなあ、という感覚を持っている。

 

で、この「目標」の無さが、わたしにとって仕事とは違うモードになれる、最大の要因でした。具体的な「成果」にコミットメントしなくていい気楽さ、というのは、実に大きくて、心からリラックスして取り組める。(・・・この感じ、わかってもらえるだろうか。。。苦笑 責任はあるけど、目標がなくて、成果へのコミットメントもしなくていい、、、この気楽さというのは、すさまじいなあと思うわけです。本人は勝手に進んでいくし、親はそれについて行けばいいわけで、非常に気楽ですはい。笑)

 

もしコソダテに「目標」的なものがあるとしたら、親の勝手な方針とは無関係に、本人が定めるべきものだろう。だから、コソダテ初期に親がすべきことは、今後本人が主体的なゴール設定(目的や目標のようなもの)を出来るように仕向けることであって、目標設定とその達成確率をあげるための直接的な支援を、うっかり親が代行してしまうことは、大きな機会損失であるように思う。コソダテ初期に、その機会を奪っておいて、学齢期にいきなり主体性や自律を求めるのは、どだい無理な話というものではないか?

 

では、自分は何をしているのか、という視点でコソダテを要素分解してみると、ひたすら本人を観察することであり、身体的な発達や好奇心の赴く様子に応じて本人がその関心を実践できる「環境を整え」たり、関心を持った内容に対する理解を助けたり興味を拡大したりするための「情報を提供」したり、ということに尽きる。

 

 

さて、果たして、トイレトレーニングもそんな感じで進められた。

 

トイレトレーニングは、とかく「目標設定」がされやすい。いつ頃始めて、プロセスとしてこんな感じのステップを踏みつつ、いつまでに卒業、といった風に。また、ハイハイやアンヨ(二足歩行)といった純粋な身体的発達に比べて、工程も複雑だし、いろいろと高度なので、親側の役割も大きいのも事実。だからこそ、親側が「目標」を設定しがちだ。

 

それで、私自身は「うっかり自分が目標を持ってしまわないように」ということを、改めて、意識的に実践してみた。これまでと同じように、娘氏についていくぞと。笑 一般的なトイレトレーニングのセオリーは一応頭に入れたが、一般よりも早くても、遅くても、特に気にせず、本人の好奇心に寄り添い、本人の向上心(新しく「できた!」を獲得することをよろこびと感じる感性を元来持ち合わせていて、そのよろこびに向かって、勝手に突進していく姿)を信頼し、ゴールまでのプロセスも、本人の意向(気分?)を尊重すると決めた。

 

すると、どうでしょう!!!

実にラクチンでストレスがないYO!!!

 

親としては突然の「布パンツはく宣言」(2歳0ヶ月)に始まり、同じく突然の「紙パンツやめる宣言」(3歳3ヶ月)で終わったという感じ。期間にすると、「停滞期」や「本人の“やる気”待ち期」などを含めて1年と3ヶ月くらい。今後も失敗することはあるだろうが、現在のところ、終日布パンツで過ごして失敗なく1ヶ月以上経過したので、ほぼ安定的にトイレが出来るようになった、と判定しているのが、いま。

 

トイレトレーニングみたいな「コソダテの難関」的な扱いをされていることでも、本人にハンドルを委ねることは可能だし、本人が自分の意志で「やめる!」と決めるプロセスは、本人を複合的に成長させるようなので(これは卒乳のときも感じた)、その「とき」を待つことは、とても重要だな、と再確認した次第。

 

以上、「コソダテ」と「目標」のはなし、おわり。

 

追伸(コメント欄への追記をコピペ):

コソダテに「目標」を持たない、ということは、逆にいうと、「こどもを大人視点でコントロールすること」を手放すことでもある。

ハンドルを、無意識のうちにわたしが握ってしまわないように細心の注意を払いつつ、危なっかしいと思っても、本人にハンドルを委ねて、同乗する感じ。目的地も、経路も、運転手である本人にお任せ。致命的な事態を避けるための危機管理はするが、多少の事故や寄り道および迷い道は見守る。ついつい効率を求めて、寄り道をとがめたくなったり、迷い道を助けたくなったりするが、その一切を手放す覚悟が必要だ。

それは、文字通り「ひたすら待つ」ことであり、口も手も出さずに「見守る」ことであって、積極的に関与できることといえば、理解を助けたり、新しい関心を引き出すための「情報提供」と、失敗を前提として、失敗の機会を奪わず、なおかつ致命的にならないような「環境整備」だけである。また、それら情報提供や環境整備に関しても、その扱いに関する判断は基本的に本人に委ねる。

その意味では、親側に「大人視点の自然かつ瞬発的な思考と行動」を封印する、ある種のアンラーン(学びほぐし)が必要なので、ハードな部分もある。

だからこそ、わたしには「自分でハンドルを握れる時間(=仕事)」が必要で、
仕事と子育ての両方があることでバランスが取れる(こどものハンドルをうっかり握らずに済む)と感じることも多い。
「自分でコントロールできる対象(仕事)」と「時間」がなかったら、
わたしは、無意識のうちにこどもをコントロールしてしまうと思う(あくまでも、わたしも場合)。

 

 

◎トイレトレーニング雑感(2)ーーー実践編。個別ケース事例と、ラップアップ的な考察メモ。 - 未来を編む。blog

 

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