◎成長の密度。

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昨日、この写真の数時間前に、娘氏(5才2ヶ月)は、突然「自分の5歳の誕生日は、もう一生訪れることはない」ということに気づいたらしく、道端で号泣し始めた。ぜんぶで30分くらい泣いたかなあ?

 

すごい大きな声でわんわん泣いた。そのうち、ママのバカ、とか言い始めたので、それは違うよね、という指摘ははさみつつ、気が済むまで泣けばいいさ、というつもりで適当なベンチに座った。すごい勢いで泣いてるけど、ママの、、、の先だけは言わないように自分なりに制御してる。

 

ひとしきり泣いて、そろそろ泣き止まないとその後本人がやりたがっていたことが出来なくなる可能性があることを伝えつつ、このまま泣くか、やりたいことをするか、選んでもらうと、号泣しながら前に進んだ。目的地に着くまで歩く間も相変わらず号泣してたけど「帰らない、行く」という。「泣いていたら入れないよ」と再び選択を促しつつ、目的地の目前で「10かぞえてごらん。もし行きたいなら、そろそろ時間だから、ゆっくり10かぞえて、落ち着いたらおいで」と言って先に角を曲がる。金網越しに娘氏の姿が見える視界だけ確保して、目線を合わせてしゃがみ、待っていると、次第に落ち着いて、てくてく歩いてきた。

 

「一生に一度しか、5歳の誕生日は来ない」ということに真の意味で自覚的になったとき、ここまで絶望できるのはすごいなと思った。悪態をついても、それは八つ当たりだとほんとはわかってて、指摘されれば、号泣のさなかにあっても「それは言わないように、、」と懸命に自制する。その自制自体が新たなストレスになっていることは明らかだけど、それでもこらえる姿をみて、すごいなと思った。時間があれば、好きなだけ泣かせてやりたかったけど、本人のやりたいこととのトレードオフだから自分で選んでもらうしかないわけだが、あんだけ絶望に満ちた号泣をしながらも、「いまここ」はちゃんと掴んだまま手放さずに、前に進むのだな、というのも関心した。絶望に乗じてすべてを投げ出してしまわずに、留まる感じ。

 

なんか、成長に密度を感じるというか、とても大きな人間に見えた。

 

で、この写真の1時間くらい前に、「ままそのねくれすとてもすてきだね」というお手紙をくれた。絶望の淵から帰ってきたのだね。

 

で、この写真の数時間後に、なんの脈絡もなく、ママうらやましいなあ、と言った。そう?と返すと、「やっぱり(自分)ちゃんがいいや。わたし、(自分)ちゃんでよかった。わたし、自分のこと、だーいすき。ニコッ」と言った。おそらく、はじめての言葉。

 

自己肯定感とか、ほんと難しい。自己肯定感が育つように、損なわないように、とひたすら願って接してきたつもりだけど、いったい自己肯定感とやらは育っているのか、よくわからない。でも、昨日は、ちゃんと本人の頭と心と肚が一本通ったような佇まいと声で、「自分でよかった」と言う姿をみせてもらって、おどろきつつ、ひとまずは安心した。

 

ひとつひとつは、何気ない日常からたちのぼる、何気ないワンシーンで、わかりやすくスポットライトが当たっているわけじゃないけど、日常はあなどれないなあと、しみじみ思う。