◎不思議の種と、不思議の余白。

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先日、学校ごっこをしていたら、娘氏が「ドラえもんは、ナニからうまれたの?それとも、うまれてるんじゃないの?さいしょからこんなかんじなの?」と質問してきた。で、夫氏:ドラえもんはロボット→娘氏:ロボットはなにからできてるのか?→夫氏:人がつくる→娘氏:ロボットはなんで動くのか?、という父子の対話に。
 
後日、娘氏に「どうして「なぜ動くのか?」ということを不思議に思ったのか」と聞いてみると、落ち着いた口調で「材料はうごかないでしょ?材料と材料をくっつけたら、どうしてうごくのかな?っておもった」というので驚いた。たしかにご指摘の通りだし、疑問をもった理由を答えられるというのは、ほんとうに自分の内側から湧いてきた不思議なんだなと思ったから、二重に驚いた。
 
で、わたしなりに学んだこと。
 
学校ごっこで次々にあらゆる質問をしたあとで、気が済んだような雰囲気と同時に、また何か不思議の種を育てているような気配があった。その先の扉を開けるのは、いまじゃないんだろうな、という感じがして、ここでおせっかいに一緒に調べてあげちゃったりしないで、自由に空想できる「余白」がだいじなのかも、と。
 
実は、学校ごっこでの「なぜ動くのか?」の質問のあとに、車のエンジンや家電のモーターの話になったけど、娘氏は一旦保留にした様子で、質問の方向性が変わった。「おうちはどうやって組み立てるのか?」という問いに続いて、「屋根はどうやってつくるのか?」と聞き、画用紙に「全体はこうでしょ?」と言いながら大きな長方形を描いたあと、「それで、なかはこうでしょ?」と小さな四角(瓦のつもりらしい)をいくつか描いて、「これはなにでくっつけるの?のり?」と聞いてきた。
 
それで、後日の「材料と材料をくっつける」という言葉を聞いて、娘氏のなかでは「ロボットの動力の問題」と「屋根のつくり方の問題」は、ある種のつながりを持って、「不思議の余白」のなかで自由にフワフワ漂っているのだなとわかった。もしかしたら「材料と材料をくっつけて動くもの」と「材料と材料をくっつけて動かないもの」という視点が、屋根瓦の質問を引き出したのかもしれない。学校ごっこのときは、私には、娘氏の問いはロボットから住宅に、つまり「別の不思議」に、切り替わったようにみえていて、まさか本人のなかで繋がっていたなんて、まったく予期できなかった。もっとも、これは私の観察であって、本人の「不思議の余白」のなかで、「不思議の種」がどんなつながりを持っているのか、本当のところはわからないのだけど。
 
娘氏に「不思議に思った理由」を教えてもらったあとで、きっと余計なことだろうなと思いながらも、「ロボットがなぜ動くのか?ってはなし、一緒にもう少し調べてみる?」と水を向けてみた。娘氏の反応は薄い。その姿をみて「やっぱりそうか」と思いつつ、またひとつ教えられた気がした。「答え」を「知って」しまったら、「不思議の余白」がなくなってしまう。知れば知るほど疑問はうまれるものだけど、その余白を埋めていく速度は、ゆっくりでいいんだな。
 
「不思議の種」がまかれたら、求められない限り、そっとしておこう。うっかり私が過剰に肥料をあげてしまわないように。
「不思議の余白」と静かに戯れる時間が彼女にもたらすもの、育むものを、私が奪ってしまわないように。
 
 
追伸:
夫氏の帰宅後に「動かない材料と動かない材料をくっつけたら、なぜ動く?」と娘氏が言っていたことを伝えたら、「それがわかりやすく見えるおもちゃないかな?」と探しはじめた。ミニ四駆でも組み立てて走らせてみたら?と言ってみたが、「エンジンはねえ。それはそれで難しいから」と、何やら別のものを物色していたが、たったいまタミヤの「バギー工作基本セット」なるものが届いた。まあ、このおもちゃも、本人が興味を示さなければ無理強いしないけど、とりあえず娘氏の視界にそれとなく置いておくことにする。
 
・・・夕食後、早速娘氏が発見して「これなに?」という。材料と材料をくっつけたらなぜ動くのか、っていうのが見えるおもちゃなんだって、と伝えたら、早速箱を開け始めた。娘氏が扉を開けるなら、いまがそのときなのかもね。

◎LGBTの絵本

前回投稿(◎およめさんになってっていわれたの、からの徒然2つ)の続編です。友人から早速絵本を紹介してもらい、触発されて「LGBT 絵本」で検索してみたら、こちらに到達したのでクリップしておきます。
 
1)LGBTのためのコミュニティサイト「2CHOPO」
LGBT当事者からの紹介なので、信頼できそうだなと思いました。
家族のカタチの多様性は、必ずしもLGBTの視点だけではなくて、養子縁組とか、まったく別の構造をもつ視点もあるので、また別のテーマとして考えていて、ひとまずは「カップル」の組み合わせはいろいろあっていいんだよ、というのを伝えられればなあ、というのが今回の問題意識。
その点にフォーカスされてそうな絵本を、まずは図書館で借りてみたいと思います。よかったら買うつもり。
 
 
2)東京新聞 2015年11月記事
この絵本選びの視点は、わたしの問題意識に近いかも。さすが東京新聞の記事だけあって、日本語の絵本が紹介されているので、実用性が高そうです。また、LGBT当事者の活動紹介にもなっているので、当事者によって選書されている点もいいなと。
 
 
3)個人ブログ:英・ガーディアン紙(2014年5月記事)の要約
文中に「トランスジェンダーの子供向けの41冊」「多様な家族について教える20冊」の2分類で書籍の紹介があって、いい感じだ!それにしても、邦訳本はまだ少ないんだな、ってことがわかる。でもまあ、日本でも条例が制定したのだから、堰は切られた。この堰が切られた、ということがすごい価値。あとは増えるだけ。

◎およめさんになってっていわれたの、からの徒然2つ。

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4才(年少)の雛祭りの日の記録。
 
保育園からの帰り道、娘氏がおもむろに、「Aくんにね、およめさんになって、っていわれたの」と言う。特にテンション高くうれしそうに言うでもなく、いつもと同じような、保育園での出来事として、といった淡々とした風情。
 
どうも、雛飾りの様子が、お内裏様(=おうじさま)とお雛様(=おひめさま)の結婚式である、という理解をしているらしく、保育園で冒頭の会話になったらしい。
 
娘氏がいうには、くわえてBくんにもお嫁さんになって欲しいといわれ、娘氏はどちらでもよかったので、ジャンケンをしてもらったと。それで、負けちゃったほうがかわいそうだから、ジャンケンに負けたAくんのおよめさんになることにした、とのこと。
 
真偽のほどは確認のすべがないが、少なくとも娘氏の脳内ワールドにはそんな物語がある、ということがわかった。
 
それで、「娘ちゃんは、だれのおよめさんでもいいの?」と聞いてみた。
 
「うん、しんじてるから。Aくんでも、Bくんでもいいの。
 Zほいくえんの子たちなら、しんじてるから、だいじょうぶ」
 
と即答したので、驚いた。それで、
 
「そっかー。娘ちゃんは、パパのことも信じてるでしょ?
 パパのお嫁さんにはならないの?」と聞いてみる。
 
「パパのおよめさんにはならないよ」と即答した娘氏に、
 
「どうして?」と聞いてみると、
 
「だって、娘ちゃんがおとなになったら、パパはおじいちゃんでしょ。
 それはちょっともったいないかな。
 いっしょに大きくなれる子と、けっこんするのがいいよ」と娘氏。
 
娘氏の日常が「しんじてるから、だいじょうぶ」と言い切れる仲間とともにあることがわかって、涙が出るほどうれしかったし、
 
そのうえ結婚を、
・信じている人とするもの
・一緒に大きくなる(成長する)もの
と認識しているんだなと思って、
どうかそのまま、その感覚を大切に大きくなってね、と願った雛祭りでした。
 
もし、日常的にみる「結婚したふたり」の姿から、そんな風に感じてくれていたのなら嬉しいけど、たしかに、結婚に必要なのはその2つで十分で、それ以外はなにひとついらないのではないか、と教えられた気分です。
 
ーーー
 
そんな話の流れで「信じていても、女の子は王子様になれないから、結婚できないのでは?」という主旨のコメントを娘氏がした。断定系というよりも、疑問形で。そこで、
 
「そうでもないよ。女の子同士でも、男の子同士でも、結婚している人はいるし、娘ちゃんが言うように、信じていて、一緒に大きくなれる人だったら、だいじょうぶだよ」と伝えてみる。
 
娘氏は、ハラオチはしていない様子だが、特に反論もせず、ふーん、と一旦は受け止めた様子で、対話は終了。
 
そこで、ふと立ち止まって考えてみるに。。。
 
プリンセス系をはじめとする各種の「物語」(お雛様を含む)によって、結婚=王子様とお姫様のカップリング=男女、という刷り込みが先にあって、娘氏の「男女の結婚」に関する認識は、それ以上でも、以下でもないっぽい。
 
そういえば、大好きな絵本のひとつである「しろいうさぎとくろいうさぎ」も、結婚をモチーフにした物語だけど、オスメスのうさぎとして描かれているなあ、なんてことを思い出したりして、改めて「常識」の圧力を自覚した一幕となった。
 
「本人の内側からの気持ち」よりも先に「画一的な情報」は容赦なく入ってきて、それでもまだ「本人の気持ち(感じ方)」はニュートラルな状態にいるっぽいけど、これからずっと、一定量の「画一的な情報」にさらされ続けたら、「内側の気持ち」が「画一的な情報」に支配されてしまう、のかもしれない。(このあたりが、夫氏の言う、自分と他人の区別は難しい、ということなのだろう。脳の仕組みからして、きっと難しいことなのだ。)
 
「常識」によって、社会から降り注いでくる「情報量」に比べれば、家庭で提供できる環境なんて「量」では絶対にかなわないけど、それでも、「常識」はうたがっていいんだ、ということや、「常識」は変えられる、ということをちゃんと伝えていきたいし、その時期は、もう始まっているのだな、と改めて実感した。
 
それで、そういった性差なく、「お互いに信頼しているふたり」が共に生きていく絵本、をさがさなくては、と思っているのがいま。「信頼しあっている人々」の物語はあると思うけど(仲間とか)、今回のテーマでいえば、ふたり、であることが大事だと思う。
 
性差に関係なく、いろいろな組み合わせがあっていいんだよ、ってことを伝えたい。イマココ。
 
※ゆるぼ1:なにかオススメの絵本があったら、教えてください!
※ゆるぼ2:こういうの、川辺さんの「こども哲学おとな哲学アーダコーダ」で扱ってたりしないかな?、とふと思うなど。笑

◎つくると、つかう。

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娘氏(4才)が戦隊モノを観るようになって、今期で3シリーズ(3年)目。
 
初年度は観るだけで済んでいたけど、
去年からおもちゃを欲しがるようになった。
 
それで、
・いわゆる完パケのおもちゃで「ただ使うだけのもの」はゼッタイに買わない、
・自分で「つくるもの」なら1回に1個だけOK、
という約束で、買っていいことにした。
 
「世の中には、つくる人と、つかう人がいる」
 
ということについては、日頃から伝えていて、たとえば絵本を読むときも、必ず奥付まで読んでいる。お話を書いた人、絵を描いた人、翻訳した人が誰かとか、どれくらい版が重ねられているかとか、ママが生まれる前に書かれたお話なんだね、といったことを話しているうちに、うっかり読み忘れるとリクエストされるようになったので、本人も少しは関心を持ってくれたよう。
 
でだ。
 
ニンニンジャー時代、食玩についたプラモデル系のおもちゃは、コンプリートする結果とになった(収集癖があったり、プラモデルが好きだったりするために、なかば夫氏が集めていたのではないか、といううわさもあるが。。苦笑)。
 
最初のころはほとんどパパが作って、娘氏はシールを貼るくらいしかできなかったけど、だんだん出来ることも増えて、手先の巧緻性や、プラモデルをつくるプロセスから「段取り」を学んだり(最初にパーツを外しちゃうと、かえって組み立てるの大変!とか)、「組み立て」てあそぶことへの親しみやよろこびを知るには、一定の貢献があったのではないかと思う。
 
かくして、いつの間にかニンニンジャーのミニプラが山のようになって目に余るので、新シリーズも始まったことだし、残すものと捨てるものに分けてもらった。
 
結局、捨てるものの方が少ない(写真左;涙)のだけど「ジュウオウジャーの食玩をひとつ買いたいときには、ニンニンジャーをひとつ捨てる」という約束で、いまのところは良しとした。
 
● 
 
今年は、戦隊モノの食玩ミニプラもつくってはいるが(そしてコンプリートするんだろうが)、それだけではなく、自分でいろんなものをつくるようになった。

相変わらず、カッコイイもの、強いものに憧れているらしい。戦隊モノは、昨年は赤のリーダーヒーローにはまっていたけど、今年はカッコイイ系の女子ヒーローにご執心。妖怪ウォッチではオロチとキュウビが好きで、ルパンではジゲンとレベッカ(新キャラ)が好きで、映画ドラエもん(宇宙警察版)ではメーバーという悪役の女海賊が好きで、映画しまじろうではチキという、みなしごで弟を守ってる強いおねえちゃんが好き。
 
上記のあらゆるキャラの「衣装」を、何度も動画を一時停止して、よく観察しながら、自分なりにパーツに分けて、画用紙に模写して、自分のカラダに合うように書き起こし、一生懸命「衣装づくり」にいそしんでいる。もちろん立体的には出来ないので、パーツごとに平面的に描いたものを切って、セロテープで洋服の上から貼ってるだけ。それで戦闘シーンをやり始めるから、すぐに取れちゃったり、ビリビリ破ける音がする。
 
そんな感じで試行錯誤を繰り返して、画用紙ではダメだと気づいたらしく、先日は、何の脈絡もなく突然に「ママ!メーバー(なる女海賊)のブーツは、もっと“つよいかみ”でつくらないとだめなんだよ。だからダンボールがいい。ダンボールなら茶色いから色も塗らなくていいしね!」と、ふと思いついたように言っていた。熱が冷めないうちに、ダンボールを渡してあげなくては。。
 
先日は、各種キャラの髪の毛まで画用紙でつくろうとして、うまくいかなくて困っていたので、レベッカ(@ルパン)の髪の色に近いスカーフを渡して、わたしが子どもの頃にママゴトでやっていた「オカンのスカーフで一瞬でロングヘアの女の子に変身する方法」を伝授したら激しく喜ばれた。
 
困ったことには、戦隊モノのカッコイイ系女子ヒーロー(セラ)の衣装を布でつくって欲しいというリクエストが、毎日毎日寄せられていることである。。。汗 実験の結果として、全身の衣装を画用紙で再現するのはむずかしい、と気付いたらしい。素晴らしいことだ。苦笑
 
そういえば去年は、ニンニンジャーの放送初回に、ニンジャイチバントウとシュリケンを作って欲しいと言われて、ダンボールで刀を、折り紙で手裏剣を作ったんだった。適当に作ったのに、本人はわりと気に入ってくれたのか、結局、一年間飽きずに使ってくれた(写真下)。途中で「折れちゃった涙」と修理依頼があれば、割り箸で補強したり(補強すること数回)、本人なりにシールで飾り付けたりして、いまだ現役の遊びアイテムである。もし、今年、セラの衣装を作ったとしたら、また1年遊んでくれるのかな?笑

それなら作り甲斐もあるが、逆に、ドレスとかのほうが、簡単につくるプロセスを思いつくんだけど、よりによって、どうして変身前の「ティーンネイジャーのちょっと変わったカジュアルウェア」みたいなのがリクエストなのか。。。自分乙

ぶっちゃけ買っちゃえば早いんだけど、、、娘氏を単に「つかうだけ」にさせないというのは、なかなか骨が折れますなあ。イマココ

◎パパのたんじょうび。

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保育園帰りに娘氏(年少)と、自転車で駅前の美味しいケーキ屋さんに行く

→デコレーションケーキがチョコしかないから「コレじゃない」らしい
→同じく駅前の不◯家にはイチゴのデコレーションケーキがあったけど「コレじゃない」らしい
→隣の駅まで電車で買いに行くと主張
→隣の駅の千◯屋のイチゴのケーキはホールケーキタイプではなく「コレじゃない」らしい
→並びのケーキ屋さんを4つ見て「コレ!」というケーキがあったのはただひとつ(マジ、あってよかった!泣)
→ろうそくも吟味の上「娘ちゃんが飾るからね!」とのこと
→お花屋さんに寄ろうか?と言うと「うん、お花も娘ちゃんが飾る!まるいのに飾る!」とのこと(この時点では私は花瓶に活けるのだと思ってた)
→何やらイメージがあるらしく、店内を吟味の上、花束とアレンジメントをひとつずつ選ぶ
→片方でいいのでは?と促すも「両方必要なの」とのこと
→娘氏が選んだアレンジメントが高い方だったので、安い方を勧めてみるも玉砕
→電車で最寄駅に戻り、自転車をピックして、ケーキを壊さないように慎重に帰宅(ああしんどw)
→帰宅と同時に、偶然にもパパ帰宅
→平日には珍しく、3人揃っての夕食
→夕食後に「娘ちゃんが飾り付けするからね!」と言って、たのしそうに飾り付け

 

という顛末の末に出来上がったのがこちら。
娘氏は、イメージ通りのものができたらしく、とても満足した雰囲気を醸し出してる。

 

なるほど、、、

 

これなら花束(プレゼント用)とアレンジメント(ケーキの飾り付け用)の両方が必要だし、たしかにアレンジメントのセレクトは最適だわ、、、と驚いたのは、わたしの方。。

 

なんか、保育園帰りに電車に乗ったり、お花をふたつも買ったり、やりすぎ(こどもの言うこと聞き過ぎ)かとも思ったけど、ダダを捏ねている風でもなく、何やら確信に満ちていてブレがなかったので、つきあったら、わたしの想像を超えるバースデイケーキになりました。

 

いまは、パパとお風呂に入ってます。

お風呂のしたくをしながら娘氏が

「最高のケーキパーティだったね!(来年の)43歳のときもこんな感じでできるといいね!」

とハツラツと一言。

 

パパも、とてもよろこんでました。

わたしも、つきあった甲斐がありました。

 

パパ、たんじょうびおめでとう!

◎車椅子とバナナと、コミュニケーションの密度。

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昨日、スタバで娘氏が絵を描くのを見守っていたら、大きなカラダの白人男性が車椅子で入店してきた。席を見つけたようだったので、椅子をどかすのを手伝おうかと立ち上がったが、別の女性が手を貸したのでそのまま座ったわたし。娘氏は、完全に「車椅子のでっかいおじさん」が気になっている。わたしになにか質問するでもなく、ただただ見つめている。

 
おじさんはその様子に気づいたのかどうかわからないけど、席を確保して注文のためにカウンターに向かう通りすがりで、娘氏に笑顔で挨拶してくれた。英語だったし、想定外だったしで、娘氏は返事はできなかったけど、コクンとうなづいた。
 
しばらくして、バナナを食べていたそのおじさんが、ゴミ箱になにかを捨てに行った通りすがりに、娘氏に「どうぞ」ととても丁寧な英語で話し掛けつつ新しいバナナをくれた。娘氏は、驚いただろうけど、ちゃんと受け取って、照れることなく「ありがとう」、と言った。
 
見知らぬ人とのやりとりを超警戒するタイプで「挨拶よりも観察」という娘氏が、わたしを振り返りもせず、照れもせずに受け取って、しっかりした口調で「ありがとう」と言ったことに、わたしはおどろいた。
 
その後、別にうれしそうにするでもなく、すぐさま食べるわけでもない。でも「バックには入れずにテーブルの上に出しておきたい」と言った。しばらくしてバナナを食べ始めるも、ひとくちふたくち食べたところで出発の時間に。「つづきはあとにしようか」という私からのリクエストを素直に聞き入れてくれて、目的地に向かう。我が強い娘氏が、本人の意向に沿わないリクエストを受け入れてくれるのは、心が充実しているときだけである。
 
スタバを出て、おじさんの姿が見えなくなったら、娘氏が心なしか嬉しそうにしている。電車は混んでいて座れなかった。間もなく「バナナのつづきをたべたい」という。電車の中での立ち食いは本来咎めるべきだろうが、娘氏がバナナを通じて受け取ろうとしている何かがありそうだったので、渡した(そもそも、娘氏は電車のなかで立ち食いすることは望ましくないことだと知っているのだし)。言葉すくなに、ひとくちずつ食べる。あとひとくち、というところで目的地に到着してしまうと、また文句も言わずに食べるのをやめた。
 
「続きは家で食べる」と娘氏がいうので、数時間後の帰宅時には傷んでしまうことを伝えると、改札をでたところで、人混みを避けて残りを食べた。どちらかと言うと少食タイプで、家でバナナをまるごと1本食べきったことなど記憶にない。おじさんから、バナナじゃないなにかを受け取っていて、それを文字通り腹に落としたかのようだった。
 
おじさんについて娘氏がわたしに言ったことは、「娘ちゃんたちはあるくけど、あのおじさんは、くるまいすがひつようなんだね」ということと、「なんでバナナくれたんだろうね」ということだけだった。

もしかしたら、娘氏にはコミュニケーションの密度が見えるのだろうか?と思った。
 
いつも「挨拶より観察型」だけど、密度のある、受け取るべきメッセージは、照れずにちゃんと受け取れるんだな。でも、密度のないコミュニケーションは、何をどう受け取ったらいいか、分からないのかもしれない。
 
もしそういうことなら、そのままでいい。筋金入りの内向型で、はげしく「挨拶より観察型」だけど、そういうことなら心配いらないな、と思った昼下がり。

追記:
英語でも、たった一言でも、発信者に確信があり、受信者を尊重していれば、受け取れるんだなあと。おじさんも、信念と柔軟さがある感じで、娘氏のことを全然こども扱いしてなくて(まあバナナはこども向けではあるがw、人として尊重している感じが伝わってきたので)、なんかふたりともスゲーなと思いました。

◎なんでもない日、おめでとう!という写真を撮りました。

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家族写真を撮った。

 

娘氏が生まれてから、ちゃんとスタジオで撮ったのは、生後間もなくと、1歳のときと、昨年の七五三の3回。毎年撮らなくてもいいと思っていたけど、それもある種の思いあがりだな、と思うようになって、今年も行ってきた。

 

今回、わたしが残しておきたいなと思ったのは、娘氏との一年を象徴するような、家族の日常の風景。

 

夢中でお絵かきする姿。
なんでもいいから筆記用具を持ちたくて、絵でも数字でも文字でも、なんでもいいから書きたい欲求がすさまじい、この感じは、きっといまだけ。

 

ひざの上で絵本を読むところ。
絵本も、だんだん自分で読みたがることが増えてきて、毎日ひざの上で読み聞かせる暮らしも、折り返し地点を過ぎたかも。

 

長くなった髪の毛をツインテールに結ぶ風景。
毎朝、娘氏の髪の毛を結んであげられること。この、なんてことない日常のひとこまが、すさまじく愛おしいということを実感して、きっと自分が死ぬときに思い出すのは、こういうシーンだろうなと思ったから。

 

なんでもない日、おめでとう!という写真を撮りました。

 

おまけ:
今年は、ジーンズを「おとこのこみたいだからやめる」と嫌がって、え?!スカート持ってないじゃん、と思いつつ、おさがりでいただいたまま一度もはいていなかったスカートがあったことを思い出し、ダメモトで見せたらば「これをはく」と即決した娘氏。相変わらずの決断力、すばらしい。が、撮影が始まるなり、頼んでもいないのに、逆立ち(っぽいこと)をしてみたり、ブリッジをしてみたり、およそスカートにはふさわしくない動きをみせるなど。笑