◎かなしいきもち、を学ぶには。

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※写真は、保育園の年長さんとのお別れ遠足で、縦割りグループの年長さんからもらったバッチ(左から2つめ)が嬉しかったらしく、保育園にお迎えに行ったら「パパとママのぶんもつくったよ!!」と真っ先に見せてくれた品々。一生懸命まねをして、それらしいものに仕立てていて、おどろきました!
 
 
年少さんのおわりころから、保育園であったことを、よく話してくれるようになった。
楽しかったことよりも、そうでなかった経験を、吐露してくれる。
 
○○ちゃん/くんが、□□□って言ったんだよ。
どうして、そんな、かなしいきもちになることを、いっちゃうんだろう。
 
もちろん、娘氏(年少)が「かなしい気持ちになること」を言っちゃう本人になることもあるはずで、言葉が早かったぶん、その方が多いのかもしれない。いや、きっとそうだ(苦笑。 だから、こうして自分自身が揉まれる体験は、本当にありがたい。
 
で、「かなしい気持ち」になったシーンの描写を聞くと、必ずしも自分に対して向けられた言葉ではなく、お友達がお友達に言った言葉で、自分はそこに居合わせただけ、という場合もある。少なくとも、本人の説明によれば。でも、大抵は目を赤くして、涙こそ流さないが、とてもかなしそうに目を潤ませる。わたしは、ただ受け止めるに徹する。
 
そっか、かなしい気持ちになったんだね。
悲しかったね。
教えてくれて、ありがとう。
 
抱っこしながら様子をみつつ、
 
○○ちゃん/くんは、それを言ったらかなしい気持ちになるって、知らなかったんじゃないかな?
娘ちゃんは、そんな風に言われたらかなしい気持ちになっちゃう、ってわかったんだね。
そしたら、娘ちゃんはそういう風に、言わないようにしたらいいよね。
 
娘氏は何もいわない。うなずくこともない。プラスにもマイナスにも感情を波立てている様子もない。この常套句は、おともだちとのコミュニケーションが始まった1年半前から言い続けているけど、これでいいのだろうか???
 
そんなやりとりが何度かあって、ある日、自分自信が悲しい気持ちになったシーンが吐露された。目は赤く潤んでいて、少しだけ涙が流れる。わたしは他に方法を知らないから、いつもと同じやりとり。ただ、悲しかったね、という気持ちを受け止めよう。「自分が言われてヤだったことは言わないように」とか、そういう教訓じみたことも言わずに、ただ受け止めよう。。
 
しばらくして、すっかり別の時間が流れたあとで、なんの脈絡もなく娘氏が言った。
 
○○ちゃん/くんは、かなしい気持ちになることを言ったらいけない、って知らなかったんだね。
○○ちゃん/くんのおかあさんが、おしえてあげなかったんだね。
○○ちゃん/くんは、わるくないね。
 
・・・展開がナナメ上すぎて目が点になりながら、かろうじて「そ、そうかもしれないね、、、」という言葉が口をつく。。
 
本人のなかでは納得しているようで、娘氏の悲しい気持ちは、ポジティブに整理されたっぽい、という気配を感じる。お友達のおかあさんの登場が、私的にはナナメ上すぎて消化しきれず戸惑ったが、でもまあ、おかあさんに対する敵意も、責める気持ちも感じられず、大好きなおともだちのお母さんとして相変わらず好きな人っぽいし、ただ本人のなかの論理的帰結として捉えているっぽいから問題ないだろう、、とひとまず自分の思考を落ち着かせて、本筋のところで、お友達をきらいになったりしないでよかった、と安堵した。
 
そう、あなたがそうであるように、お友達にも悪意はない。
あなたのことを嫌いなわけでもない。
大好きだけど、NGワードを言っちゃうこともあるよね。
そのことに、自分で気付けたことは、すごいことだね。
 
ーーーと思いつつ、胸にしまう。
わたしはそんなこと、こどものころには気づかなかったよ。
ようやく気付いたのは、オトナになってからだったかもしれないな。
 
 
夫が帰宅するころになって、やっぱり「おかあさんの登場」が気になって消化できなかったので(苦笑、娘氏との会話を再現しつつ、自分の見解も不安も表明せずに夫氏に報告してみる。夫氏がいうには、
 
・娘氏は、あいかわらず論理的である
・娘氏は、自分はママにおしえてもらった、と思っている
・ママにとっては暖簾に腕押しのようだったかもしれないが、これまで言ってきた常套句はちゃんと伝わっており、無駄ではなかったね、よかったね
 
という返事。ああ、そういうことなのか。。。
 
 
考えてみれば、、、
 
娘氏にとって、「かなしい気持ち」を学べる環境がようやく整った、ということなのかもしれない。ハッキリ言って、娘氏がお友達に対して不適切な発言をする方が多かったはずだ。だから、わたしは一年半前から、悩んできたのだから。でもそれは、彼女にとって必要な環境が整っていなかった、ということだったのかもしれないなあ(娘氏にとっては、同じクラスのおともだちの多くが、日常的に日本語でコミュニケーションするようになった、という環境が整ったことが最後のパーツと推測してみた次第)。
 
昨年の春に年少さんになってからは、縦割り保育の時間が増えたので、年中さんや年長さんの言動によって「かなしい気持ち」になって帰ってきたことはある。私としては、ありがたい話で、いい体験だと思っていた。いまでもそう思っているし、今後もたくさん揉まれて欲しいと思うけど、(同じクラスの)おともだち同志で体験するそれとは異質なのかもしれない、という仮説をおいてみる。
 
娘氏は、とにかく保育園が好きで、それはお友達や先生たちが大好きだから。0才から一緒のおともだちは、もう彼女の人生の大半を一緒に過ごしているし、1才児、2才児クラスからのおともだちのことだって大好きだ。で、そこには、あつい信頼が育まれている。そのことは、過去投稿の「お雛様の徒然」でわかったことだけど、その信頼は、年中さんや年長さんとの間のそれとは、質が違うのかもしれない。
 
だから、同じクラスのおともだちとのやりとりでは、本人のなかにうまれる「かなしい気持ち」も切実さが違う。だからこそ、「かなしい」の意味が身に沁みる。でも同時に、たとえ「かなしい気持ち」になる出来事があったとしても、おともだちとの間にすでに育まれているたしかな信頼が、頑丈なバンパーのように、あるいはふわっふわのクッションのように、娘氏を守ってくれているのではないだろうか?
 
娘氏とおともだちの間には、何層にも重ねられた大好きな気持ちや、仲間意識や、信頼がある。そして、それが一方通行のものではなく、双方に行き交うもので、彼女自身がたくさんの信頼や、大好きな気持ちを受け取っている。だから、おともだちとの間で「かなしい気持ち」になる出来事があっても、不信や悪意のまえに、大好きや信頼が先に立つ。結果として、「かなしい気持ち」が娘氏の心の奥底を直撃することはなく、「かなしい気持ち」をポジティブに消化するだけの緩衝材になってくれているのではないだろうか?たとえ、おともだちに「かなしい気持ち」になることを言われたとしても、そのおともだちが、優しい、楽しい、信頼に足る相手だと知っている。だから、前述のような論理展開が可能となり、ポジティブに消化できたのではないか?「おともだちは、「かなしい気持ち」になることを言っちゃったけど、知らなかったのだから仕方ない。おともだちは、わるくない」と。
 
年中さんや年長さんとは、その「十分な双方向の信頼」がないうちに、チカラによってやりこめられてしまう。この体験も必要で、意味があり、ありがたいことに変わりはないが、その場合は、学べるポイントが変わってくるのかもしれない。まだたしかな信頼を育めていない相手にチカラで押さえつけられたら、悲しいし、悔しい。もしかしたら、恐怖を感じるかもしれない。これは「かなしい気持ちになることを、他者に言ってはいけない」とは別の学習なのかもしれないなあ。まずは、悲しさや、悔しさを感じること。その無念さを味わうこと。そして、もし無念な気持ちがあるとしたら、それを向けていいのは、その無念をもたらした相手だけだ、ということ。自分に向けてもダメだし、ましてや自分より弱い相手をチカラでやりこめることで代替してはいけない。もし恐怖を覚えるのなら、身を守る術を学ぶ必要がある。
 
というわけで、「かなしい気持ちになることを、他者に言ってはいけない」ということを学ぶには、「十分な双方向の信頼」がある「対等な相手」がいる、ということが、必要な環境なのかもしれないなあ、と思った次第。
 
娘氏にとっても、わかるとできるの間には大きな谷があるのであって、まだまだ「かなしい気持ち」になることを言っちゃうこともあるだろうけど、まあ、わたしも含めてオトナにとっても難しいことだから、ゆっくり行こうぜ、娘氏よ。
 
 
ともだち同士の社会性というのは、どうやら、年中さんからの発達課題らしい。年少さんまでは、毎日遊ぶ相手が違うことが多く、年中さんからは、遊び相手が固定してくる傾向があるという。そうだとしたら、娘氏にとっては、「ともだち同士の社会性」を学ぶ前に「ともだち同士の信頼」を学べたことは、大きかったのではないだろうか?
 
一般的には、こどもの順応性は高い、という。たしかにそうだ。でも、娘氏のように「挨拶よりも観察派」で、自分の安全や安心に対して、自分が納得するまで観察しないとGOを出さないタイプの場合、この「バンパーのような、クッションのようなもの」の存在はとても大きいのではないか、と思った。
 
この春、0才から保育園に預けることを心配するおかあさんもいるかもしれない。でも、少なくとも娘氏の場合は、0才児クラスから通ったからこそ得られたものがあった、といえそうなので、個人的には「心配いらないよ、あなたがお子さんの保育環境として最適だと思える環境を選んでいるのなら、むしろプラスだよ」とお伝えしたい心持ち。

◎まさかの、カント!

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私が絶賛迷走中のコソダテ問題において、カントが助けになってくれそうだという感触を得た。夫氏推薦の「哲学用語図鑑」はたしかに良書で、哲学とは無縁だった私にも響く。すっかりカントに魅せられて「純粋理性批判」なる代表作を読みたいと思ったけど、夫氏の蔵書は難しすぎて歯がたたないと申し立てると、「カント入門」なる新書を薦められた。とりあえず目次に目を通したところでひるんでる状態だけど、でもここに謎をとく鍵がありそうだという予感だけを頼りに、なんとかがんばる所存である。読み始めたらカントの肖像画と目が合って、なんか知らんが涙でた、とFacebookに投稿したら、ともだちに「それは恋ですねw」と言われて、哲学者のおじいさまに恋する己の図に爆笑しつつ、たしかにそうかも…と思ってみたり。笑

 
わたしは、娘氏(4才終盤)の「不適切にみえる言動」に対して、何がスルーしてよくて、何がスルーしちゃいけない現象なのか、ブレない指針が欲しかった。それはどうも、倫理/道徳の問題らしく、カントが助けになるっぽい。ああ、やっとここまで来た!コソダテにムズカシサを感じ始めてから1年半もかかったよ。最初の半年は、1人で悶々とした。1年前くらいから、夫氏に何度も相談したし、本も読んだけど、私が「問題」と感じているものが複層的すぎて、明確に捉えきれなかったのだ。ここへきてようやく倫理/道徳の問題が糸口のひとつになりそうだ、という感触を得た。やっとここまで来た!ほんっとに嬉しいぜ!
 
生まれてから3歳半くらいまでは、「他者の命と自分の命をおびやかしてはいけない」ということだけが、私(と夫氏)が娘氏に求めた倫理だった。それに、最近になって「他者を自分の“道具”にしてはいけない」が加わった。この倫理を娘氏に求めることに自覚的になったのは、ほんの1ヶ月ほど前のこと。これだけでも、私はかなり楽になった。
 
 
わたしの迷走は、ちょうど1年半ほど前にさかのぼる。娘氏がまがりなりにも「日本語」を使い始め、「他者とのコミュニケーション」が始まったあたりから、急激にコソダテがムズカシイと感じるようになった。それまでは、イヤイヤ期なんて痛くも痒くもないくらいに、ある種の信念が自分を支え、迷いなくコソダテできたのに。もはや、立ち行かないのは明らかだった。
 
わたしは「言葉」に対して過敏なのだ。職業病ともいえるかもしれないが、自分の「言葉」に対するある種の厳密さが、自分を苦しめる。自分が瞬発的に発する「言葉」に必ずしも責任を持てないくせに、娘氏が瞬発的に発する「言葉」を厳密に受け取ってしまう。言葉は、本来とても不便な道具なのだ。オトナだって扱い切れないのに、ましてや語彙の限られた、思考力も発展途上の、感情さえも後天的に学ぶという説もあるくらいの幼児にとって、言葉がどれだけ不便な道具か、頭では分かっている。でも、自分の言葉への過敏さはほとんど反射的なもので、コントロールする術を知らず、感情も逆撫でられるし、無駄に心配もしてしまう。
 
一方で、職業病を持ち出すのなら、非言語の「観察」も得意なはずだ。クライアントのコトバにならないコトバを汲み取り、抽象概念を具体化して、コトを前に進めることも私の生業である。そこにはエスノグラフィー的「観察」があり、これまでのコソダテにおいては「観察」の得意に助けられた。娘氏の「非言語」の豊かな表現に、実に多くを学んだ。トイレトレーニングも、えんぴつも、おはしも、ひらがなも、娘氏をただただ観察し、娘氏の関心の所在と度合いを捉え、それに応じてちょっとだけ環境を整え、ちょっとだけ情報を与えれば、彼女は勝手にどんどん吸収する。なんの苦労もない。この手のことで叱ったことは一度もないし、迷いを感じたこともない。
 
しかし、観察対象が「言語」による「他者とのコミュニケーション」になった途端、わたしは何もわからなくなった。まるで「鳥のコトバ」を失ったニルスのように、娘氏が「非言語」によって表出している何かを観察する感度が鈍り、「日本語」として表出される「コトバ」にとらわれてしまう。わたしは「他者との(瞬発的な)コミュニケーション」が苦手なのだ。自分がわかっていないことは、手に余り、こぼれ落ちる。
 
悪いことに、そこに「社会性」や「しつけ」といった、これまた自分がよくわかっていないものが掛け合わさって、迷走が極まる。「社会性」も「しつけ」も、私は心の奥底で疑っている。そんなものいらなくね?、と思っている自分がいて、もっと言えば「社会」なるものに「適合」させてしまうことを恐れている。そのくせ、まったく不要だとは割り切れない。この振れ幅の大きい自己矛盾に疲れ果て、絶賛迷走中なのである。
 
幼児の日常には「不適切な言動」が溢れている。「ああ、そんなことを言ったら(したら)嫌われちゃうよ、、、」と心がざわつきながらも、一体、なにをどう伝えればいいのか。夫氏は「そもそも人間というものは自分と他人を区別することはむずかしいのだから、心配いらない」と言う。私のなかで混沌が極まって泣いても喚いても、一貫して「心配いらない」と言う。私も、そう思いたい。でもでも、本当にスルーしちゃっていいの?母親として、いま、この具体的機会を捉えて“教える”べきことは、本当にないの?と心がザワつく。自分が「不適切」と感じている言動は、本当に、4歳児においても「不適切」なのか?どこまでが、いまの娘氏に求めていいことで、どこからが過剰なのか?どこまでが「必要不可欠なしつけ」なのか?、なにが4歳児に求めてしかるべき「社会性」なのか?、、、わたしのなかに「不適切かもしれない言動」の個別事例を、すっきり整理できる軸がない。
 
「あなたがお友達にそう言われたら(そうされたら)、どんな気持ちがする?」「自分がされて嫌な気持ちになることは、他の人にしたらいけないよ」。これらの常套句は言い尽くした。たしかに、この常套句にはある種の真理があると思うし、これからも言い続けると思うけど、でも、わたしが求めているのは、そういうことじゃない。モンテッソーリ教室の信頼する先生が言う。「自愛が満ちれば、慈愛がうまれます。」なるほど、たしかにそうだ。ならば、さきほどの常套句は、本質的には不要のはずだ(そういえば、モンテの先生はこの常套句を使わない)。だって、常套句が教えるものは慈愛だよね。慈愛が自愛の末にうまれるものなら、こんな常套句はいらないはずだ。ならば、自愛を満たすためには、何が必要なのか。わたしが軸を間違えれば、慈愛を“教える”どころか、育まれるべき自愛さえも損なってしまうのではないか。もしかして、これまでの育て方が根本的に間違っていた、という可能性は??そんな不安さえ湧き上がる。
 
2歳を過ぎるまで、命に関わること以外は一切禁止をしなかった(もっとも、娘氏が自ら無茶をしない慎重派だったから出来たことかもしれないが)。2歳を過ぎて、最低限のマナーについては教えたが、ほとんど叱ったことはない。必要なのは説明することであり、待つことであって、叱る必要を感じなかったからだ。でも、3歳半を過ぎてから、叱ることが増えた。これまで叱られ慣れていないせいか、娘氏は「そのいいかたがこわい」と泣く。いきなり叱っているわけじゃないよね、最初は普通に優しく言ったよね、カウントダウンしても聞き分けないから叱ってるんじゃん、というのがこちらの言い分だ。しかし、号泣している娘氏に、叱られている「具体的理由」は届いていないようにみえる。これでは、自愛を損なってしまうのではないか、と叱るのがこわくなる。結果、叱るべき/叱る必要はない、の判断に迷いが生じる。もはや「命をおびやかさない」という倫理だけでは、立ち行かないのは明白なのに、自分のなかに軸がない。
 
幼児なんて、浅い視点でみたら「不適切な言動」だらけなのだ。でも本当に、それらは「不適切」なのか、いちいち迷う自分がいる。空気なんて読めなくていいし、オトナにとって「あら、いい子!」なんて方向に行かなくていいし、「常識」はうたがっていいのだと知って欲しい。歳相応の「社会性」だって、すでに身についてる。夫氏は、人間の脳の仕組みからいって「自分と他人を区別することはむずかしい」し、ましてや「他人を理解するというタスクはむずかしい」のだから心配はいらない、という。これらは、すべて真実だと思う。でも、どれも抽象度が高すぎて、日常の「現場」で咄嗟に判断する軸としては、使えない。
 
 
そんな絶賛迷走中のわたしのもとに、満を持してのカント先生の登場だったのだが、実は、その前に、いくつかのブレイクスルーがあった。何冊かの本に助けられ、尊敬する先輩オカンや、モンテッソーリの先生に助けられ、文字通り階段をひとつずつ昇ってきた感覚はある。でも、まだ問題の本質が、「肝」が、つかめていない感覚が残っていて、したがって、日常の「コソダテ現場」での迷いは相変わらず大きい。そこに、カントが現れるわけだが、その前に、もうひとつのブレイクスルーがあった。
 
ある幼児教育の専門家と出会い、私が疑問を感じているあらゆることに対して、個別相談という名を借りて、ディスカッションをさせてもらう機会を得た。曰く、うそ、いじわる、よくばり、わがまま、この4つ以外は叱らなくていい。なるほど、わかりやすい。でもちょっと待った。まだ「いじわる」だと感じたこと(娘氏の他者に対する悪意を感じたこと)はないけど、よくうそをつくし、しばしばよくばりだし、たいていわがままだ。笑 そこで、ウソについて個別具体的な事例に照らして質問してみると、わたしがモヤッとしていたウソは、問題なくスルーしていい類のウソらしい。その理由についても納得できた。なるほど!!!
 
このあたりで、わたしの脳内に明かりが灯り、ブレイクスルーが起きた。
 
「一見不適切にみえる言動」のなかに「自信を持ってスルーしていい領域」があるのならば、それを明確に掴めれば私は迷わない。そうか、わたしはソレが欲しかったのか!!自信をもってスルーしたかったんだ!!私の直感は、あれこれ言わなくていいと知っている。でも、娘氏の「決して最適ではない言動」を前にすると、心はモヤッとする。結果的には、まあ咎めるほどでもないし咎める言葉も知らないし、、、と為す術なくスルーするシーンが多く、このモヤッとがストレスだったのだ。モヤッとは不安だから。わたしが娘氏を不安視することは、きっと伝わってしまう。それが自愛を損ねやしないかと、地味に私の不安として跳ね返る。
 
うそ、いじわる、よくばり、わがまま、を自分のモヤッとしている具体的シーンに照らして、専門家とディスカッションをさせてもらえれば、モデリング出来るのではないかという希望がみえた。正直いって、社会的通念としてすでに持ち合わせてしまっている自分の感覚値では、幼児のうそ、幼児のよくばり、幼児のわがままを扱い切れないのだ。
 
このブレイクスルーについて伝えると、夫氏が言った。それは、佳美さんのなかの倫理の問題だね。カントを読んでみたらいいんじゃないかな?
 
そうか、倫理の問題なのか。そう考えると、自分のなかに「他者を自分の“道具”にしてはいけない」という倫理があり、それは自分が生きる上で、あるいは仕事をする上で、とても大切にしていることだし、夫婦で共有する倫理観でもある。そして、4才児であっても求められて然るべき倫理であろう、と腑に落ちた。もちろん「他者を自分の“道具”にしてはいけない」なんて言っても、4歳児にはわからないし、そんなことはいわない。でも、一見「不適切にみえる言動」の個別事例を観察する際の、わたしにとっての判断軸としては十分機能する。専門家のいう4分類のうち「わがまま」を因数分解すると、「他者を自分の“道具”にしてはいけない」という倫理に当てはまりそうだし、なるほど突破口が見えてきたような気がする。そう、私はこういう軸を掴みたかった。
 
かくして、カント先生の入門書の扉をあけ、哲学者のおじいさまに恋するに至る(笑。
命をおびやかさないこと、他者を自分の道具にしないこと。
それ以外に、私は娘氏に、なにを求めるのだろうか。
 
 
1年半も迷走してみて、まあ、悪いことばかりでもなかった。わたしは娘氏を根本のところで信頼しているのだな、とわかったから。娘氏の素晴らしい資質を、私がうっかり損なってしまわないだろうか、という恐れが迷走の正体らしい。私の迷走の根っこにあるのは、彼女への不安ではなく、自分への不安だったのだ。
 
迷走中は(厳密にはまだそのさなかだけれど)、自分のダメなところの鏡写しのようで辛かった。
自分が母親で申し訳ないような気持ちになったし、私の“悪影響”が娘氏に与える不都合が、不安でしかなかった。でも、自分の人生でまだ解けていない宿題に着手する感覚には、今後の人生を明るくする予感がある。
 
 
・・・正直言って、こういうめちゃくちゃ理屈っぽい話をしたためることには躊躇がある。ママ友は、なんかめんどくさい人だな、とドン引きしないだろうか。友人たちは、なんか偉そうなこと言ってるな、と思わないだろうか。先輩諸氏に、コソダテはアタマでするもんじゃない、とお叱りを受けないだろうか。でもまあ、しゃあないな、と思うに至った。こんな風にしか生きられないのに、そうじゃないふりをすることが自分を苦しめるのだろう。同じ苦しむならば、隠して苦しむより、晒して苦しんだほうがマシなのかもしれない。まあ、カントに恋するくらいだから、そもそも私はヘンジン路線なのだ。個人としてはそのように生きてきたのに、母親としてのワタシだけはフツーに、波風立てずに、マジョリティ路線で、、、というのが無理な話だったのだ。母親としても、ヘンジン路線を突き進むしかないではないか。笑

◎不思議の種と、不思議の余白。

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先日、学校ごっこをしていたら、娘氏が「ドラえもんは、ナニからうまれたの?それとも、うまれてるんじゃないの?さいしょからこんなかんじなの?」と質問してきた。で、夫氏:ドラえもんはロボット→娘氏:ロボットはなにからできてるのか?→夫氏:人がつくる→娘氏:ロボットはなんで動くのか?、という父子の対話に。
 
後日、娘氏に「どうして「なぜ動くのか?」ということを不思議に思ったのか」と聞いてみると、落ち着いた口調で「材料はうごかないでしょ?材料と材料をくっつけたら、どうしてうごくのかな?っておもった」というので驚いた。たしかにご指摘の通りだし、疑問をもった理由を答えられるというのは、ほんとうに自分の内側から湧いてきた不思議なんだなと思ったから、二重に驚いた。
 
で、わたしなりに学んだこと。
 
学校ごっこで次々にあらゆる質問をしたあとで、気が済んだような雰囲気と同時に、また何か不思議の種を育てているような気配があった。その先の扉を開けるのは、いまじゃないんだろうな、という感じがして、ここでおせっかいに一緒に調べてあげちゃったりしないで、自由に空想できる「余白」がだいじなのかも、と。
 
実は、学校ごっこでの「なぜ動くのか?」の質問のあとに、車のエンジンや家電のモーターの話になったけど、娘氏は一旦保留にした様子で、質問の方向性が変わった。「おうちはどうやって組み立てるのか?」という問いに続いて、「屋根はどうやってつくるのか?」と聞き、画用紙に「全体はこうでしょ?」と言いながら大きな長方形を描いたあと、「それで、なかはこうでしょ?」と小さな四角(瓦のつもりらしい)をいくつか描いて、「これはなにでくっつけるの?のり?」と聞いてきた。
 
それで、後日の「材料と材料をくっつける」という言葉を聞いて、娘氏のなかでは「ロボットの動力の問題」と「屋根のつくり方の問題」は、ある種のつながりを持って、「不思議の余白」のなかで自由にフワフワ漂っているのだなとわかった。もしかしたら「材料と材料をくっつけて動くもの」と「材料と材料をくっつけて動かないもの」という視点が、屋根瓦の質問を引き出したのかもしれない。学校ごっこのときは、私には、娘氏の問いはロボットから住宅に、つまり「別の不思議」に、切り替わったようにみえていて、まさか本人のなかで繋がっていたなんて、まったく予期できなかった。もっとも、これは私の観察であって、本人の「不思議の余白」のなかで、「不思議の種」がどんなつながりを持っているのか、本当のところはわからないのだけど。
 
娘氏に「不思議に思った理由」を教えてもらったあとで、きっと余計なことだろうなと思いながらも、「ロボットがなぜ動くのか?ってはなし、一緒にもう少し調べてみる?」と水を向けてみた。娘氏の反応は薄い。その姿をみて「やっぱりそうか」と思いつつ、またひとつ教えられた気がした。「答え」を「知って」しまったら、「不思議の余白」がなくなってしまう。知れば知るほど疑問はうまれるものだけど、その余白を埋めていく速度は、ゆっくりでいいんだな。
 
「不思議の種」がまかれたら、求められない限り、そっとしておこう。うっかり私が過剰に肥料をあげてしまわないように。
「不思議の余白」と静かに戯れる時間が彼女にもたらすもの、育むものを、私が奪ってしまわないように。
 
 
追伸:
夫氏の帰宅後に「動かない材料と動かない材料をくっつけたら、なぜ動く?」と娘氏が言っていたことを伝えたら、「それがわかりやすく見えるおもちゃないかな?」と探しはじめた。ミニ四駆でも組み立てて走らせてみたら?と言ってみたが、「エンジンはねえ。それはそれで難しいから」と、何やら別のものを物色していたが、たったいまタミヤの「バギー工作基本セット」なるものが届いた。まあ、このおもちゃも、本人が興味を示さなければ無理強いしないけど、とりあえず娘氏の視界にそれとなく置いておくことにする。
 
・・・夕食後、早速娘氏が発見して「これなに?」という。材料と材料をくっつけたらなぜ動くのか、っていうのが見えるおもちゃなんだって、と伝えたら、早速箱を開け始めた。娘氏が扉を開けるなら、いまがそのときなのかもね。

◎LGBTの絵本

前回投稿(◎およめさんになってっていわれたの、からの徒然2つ)の続編です。友人から早速絵本を紹介してもらい、触発されて「LGBT 絵本」で検索してみたら、こちらに到達したのでクリップしておきます。
 
1)LGBTのためのコミュニティサイト「2CHOPO」
LGBT当事者からの紹介なので、信頼できそうだなと思いました。
家族のカタチの多様性は、必ずしもLGBTの視点だけではなくて、養子縁組とか、まったく別の構造をもつ視点もあるので、また別のテーマとして考えていて、ひとまずは「カップル」の組み合わせはいろいろあっていいんだよ、というのを伝えられればなあ、というのが今回の問題意識。
その点にフォーカスされてそうな絵本を、まずは図書館で借りてみたいと思います。よかったら買うつもり。
 
 
2)東京新聞 2015年11月記事
この絵本選びの視点は、わたしの問題意識に近いかも。さすが東京新聞の記事だけあって、日本語の絵本が紹介されているので、実用性が高そうです。また、LGBT当事者の活動紹介にもなっているので、当事者によって選書されている点もいいなと。
 
 
3)個人ブログ:英・ガーディアン紙(2014年5月記事)の要約
文中に「トランスジェンダーの子供向けの41冊」「多様な家族について教える20冊」の2分類で書籍の紹介があって、いい感じだ!それにしても、邦訳本はまだ少ないんだな、ってことがわかる。でもまあ、日本でも条例が制定したのだから、堰は切られた。この堰が切られた、ということがすごい価値。あとは増えるだけ。

◎およめさんになってっていわれたの、からの徒然2つ。

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4才(年少)の雛祭りの日の記録。
 
保育園からの帰り道、娘氏がおもむろに、「Aくんにね、およめさんになって、っていわれたの」と言う。特にテンション高くうれしそうに言うでもなく、いつもと同じような、保育園での出来事として、といった淡々とした風情。
 
どうも、雛飾りの様子が、お内裏様(=おうじさま)とお雛様(=おひめさま)の結婚式である、という理解をしているらしく、保育園で冒頭の会話になったらしい。
 
娘氏がいうには、くわえてBくんにもお嫁さんになって欲しいといわれ、娘氏はどちらでもよかったので、ジャンケンをしてもらったと。それで、負けちゃったほうがかわいそうだから、ジャンケンに負けたAくんのおよめさんになることにした、とのこと。
 
真偽のほどは確認のすべがないが、少なくとも娘氏の脳内ワールドにはそんな物語がある、ということがわかった。
 
それで、「娘ちゃんは、だれのおよめさんでもいいの?」と聞いてみた。
 
「うん、しんじてるから。Aくんでも、Bくんでもいいの。
 Zほいくえんの子たちなら、しんじてるから、だいじょうぶ」
 
と即答したので、驚いた。それで、
 
「そっかー。娘ちゃんは、パパのことも信じてるでしょ?
 パパのお嫁さんにはならないの?」と聞いてみる。
 
「パパのおよめさんにはならないよ」と即答した娘氏に、
 
「どうして?」と聞いてみると、
 
「だって、娘ちゃんがおとなになったら、パパはおじいちゃんでしょ。
 それはちょっともったいないかな。
 いっしょに大きくなれる子と、けっこんするのがいいよ」と娘氏。
 
娘氏の日常が「しんじてるから、だいじょうぶ」と言い切れる仲間とともにあることがわかって、涙が出るほどうれしかったし、
 
そのうえ結婚を、
・信じている人とするもの
・一緒に大きくなる(成長する)もの
と認識しているんだなと思って、
どうかそのまま、その感覚を大切に大きくなってね、と願った雛祭りでした。
 
もし、日常的にみる「結婚したふたり」の姿から、そんな風に感じてくれていたのなら嬉しいけど、たしかに、結婚に必要なのはその2つで十分で、それ以外はなにひとついらないのではないか、と教えられた気分です。
 
ーーー
 
そんな話の流れで「信じていても、女の子は王子様になれないから、結婚できないのでは?」という主旨のコメントを娘氏がした。断定系というよりも、疑問形で。そこで、
 
「そうでもないよ。女の子同士でも、男の子同士でも、結婚している人はいるし、娘ちゃんが言うように、信じていて、一緒に大きくなれる人だったら、だいじょうぶだよ」と伝えてみる。
 
娘氏は、ハラオチはしていない様子だが、特に反論もせず、ふーん、と一旦は受け止めた様子で、対話は終了。
 
そこで、ふと立ち止まって考えてみるに。。。
 
プリンセス系をはじめとする各種の「物語」(お雛様を含む)によって、結婚=王子様とお姫様のカップリング=男女、という刷り込みが先にあって、娘氏の「男女の結婚」に関する認識は、それ以上でも、以下でもないっぽい。
 
そういえば、大好きな絵本のひとつである「しろいうさぎとくろいうさぎ」も、結婚をモチーフにした物語だけど、オスメスのうさぎとして描かれているなあ、なんてことを思い出したりして、改めて「常識」の圧力を自覚した一幕となった。
 
「本人の内側からの気持ち」よりも先に「画一的な情報」は容赦なく入ってきて、それでもまだ「本人の気持ち(感じ方)」はニュートラルな状態にいるっぽいけど、これからずっと、一定量の「画一的な情報」にさらされ続けたら、「内側の気持ち」が「画一的な情報」に支配されてしまう、のかもしれない。(このあたりが、夫氏の言う、自分と他人の区別は難しい、ということなのだろう。脳の仕組みからして、きっと難しいことなのだ。)
 
「常識」によって、社会から降り注いでくる「情報量」に比べれば、家庭で提供できる環境なんて「量」では絶対にかなわないけど、それでも、「常識」はうたがっていいんだ、ということや、「常識」は変えられる、ということをちゃんと伝えていきたいし、その時期は、もう始まっているのだな、と改めて実感した。
 
それで、そういった性差なく、「お互いに信頼しているふたり」が共に生きていく絵本、をさがさなくては、と思っているのがいま。「信頼しあっている人々」の物語はあると思うけど(仲間とか)、今回のテーマでいえば、ふたり、であることが大事だと思う。
 
性差に関係なく、いろいろな組み合わせがあっていいんだよ、ってことを伝えたい。イマココ。
 
※ゆるぼ1:なにかオススメの絵本があったら、教えてください!
※ゆるぼ2:こういうの、川辺さんの「こども哲学おとな哲学アーダコーダ」で扱ってたりしないかな?、とふと思うなど。笑

◎つくると、つかう。

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娘氏(4才)が戦隊モノを観るようになって、今期で3シリーズ(3年)目。
 
初年度は観るだけで済んでいたけど、
去年からおもちゃを欲しがるようになった。
 
それで、
・いわゆる完パケのおもちゃで「ただ使うだけのもの」はゼッタイに買わない、
・自分で「つくるもの」なら1回に1個だけOK、
という約束で、買っていいことにした。
 
「世の中には、つくる人と、つかう人がいる」
 
ということについては、日頃から伝えていて、たとえば絵本を読むときも、必ず奥付まで読んでいる。お話を書いた人、絵を描いた人、翻訳した人が誰かとか、どれくらい版が重ねられているかとか、ママが生まれる前に書かれたお話なんだね、といったことを話しているうちに、うっかり読み忘れるとリクエストされるようになったので、本人も少しは関心を持ってくれたよう。
 
でだ。
 
ニンニンジャー時代、食玩についたプラモデル系のおもちゃは、コンプリートする結果とになった(収集癖があったり、プラモデルが好きだったりするために、なかば夫氏が集めていたのではないか、といううわさもあるが。。苦笑)。
 
最初のころはほとんどパパが作って、娘氏はシールを貼るくらいしかできなかったけど、だんだん出来ることも増えて、手先の巧緻性や、プラモデルをつくるプロセスから「段取り」を学んだり(最初にパーツを外しちゃうと、かえって組み立てるの大変!とか)、「組み立て」てあそぶことへの親しみやよろこびを知るには、一定の貢献があったのではないかと思う。
 
かくして、いつの間にかニンニンジャーのミニプラが山のようになって目に余るので、新シリーズも始まったことだし、残すものと捨てるものに分けてもらった。
 
結局、捨てるものの方が少ない(写真左;涙)のだけど「ジュウオウジャーの食玩をひとつ買いたいときには、ニンニンジャーをひとつ捨てる」という約束で、いまのところは良しとした。
 
● 
 
今年は、戦隊モノの食玩ミニプラもつくってはいるが(そしてコンプリートするんだろうが)、それだけではなく、自分でいろんなものをつくるようになった。

相変わらず、カッコイイもの、強いものに憧れているらしい。戦隊モノは、昨年は赤のリーダーヒーローにはまっていたけど、今年はカッコイイ系の女子ヒーローにご執心。妖怪ウォッチではオロチとキュウビが好きで、ルパンではジゲンとレベッカ(新キャラ)が好きで、映画ドラエもん(宇宙警察版)ではメーバーという悪役の女海賊が好きで、映画しまじろうではチキという、みなしごで弟を守ってる強いおねえちゃんが好き。
 
上記のあらゆるキャラの「衣装」を、何度も動画を一時停止して、よく観察しながら、自分なりにパーツに分けて、画用紙に模写して、自分のカラダに合うように書き起こし、一生懸命「衣装づくり」にいそしんでいる。もちろん立体的には出来ないので、パーツごとに平面的に描いたものを切って、セロテープで洋服の上から貼ってるだけ。それで戦闘シーンをやり始めるから、すぐに取れちゃったり、ビリビリ破ける音がする。
 
そんな感じで試行錯誤を繰り返して、画用紙ではダメだと気づいたらしく、先日は、何の脈絡もなく突然に「ママ!メーバー(なる女海賊)のブーツは、もっと“つよいかみ”でつくらないとだめなんだよ。だからダンボールがいい。ダンボールなら茶色いから色も塗らなくていいしね!」と、ふと思いついたように言っていた。熱が冷めないうちに、ダンボールを渡してあげなくては。。
 
先日は、各種キャラの髪の毛まで画用紙でつくろうとして、うまくいかなくて困っていたので、レベッカ(@ルパン)の髪の色に近いスカーフを渡して、わたしが子どもの頃にママゴトでやっていた「オカンのスカーフで一瞬でロングヘアの女の子に変身する方法」を伝授したら激しく喜ばれた。
 
困ったことには、戦隊モノのカッコイイ系女子ヒーロー(セラ)の衣装を布でつくって欲しいというリクエストが、毎日毎日寄せられていることである。。。汗 実験の結果として、全身の衣装を画用紙で再現するのはむずかしい、と気付いたらしい。素晴らしいことだ。苦笑
 
そういえば去年は、ニンニンジャーの放送初回に、ニンジャイチバントウとシュリケンを作って欲しいと言われて、ダンボールで刀を、折り紙で手裏剣を作ったんだった。適当に作ったのに、本人はわりと気に入ってくれたのか、結局、一年間飽きずに使ってくれた(写真下)。途中で「折れちゃった涙」と修理依頼があれば、割り箸で補強したり(補強すること数回)、本人なりにシールで飾り付けたりして、いまだ現役の遊びアイテムである。もし、今年、セラの衣装を作ったとしたら、また1年遊んでくれるのかな?笑

それなら作り甲斐もあるが、逆に、ドレスとかのほうが、簡単につくるプロセスを思いつくんだけど、よりによって、どうして変身前の「ティーンネイジャーのちょっと変わったカジュアルウェア」みたいなのがリクエストなのか。。。自分乙

ぶっちゃけ買っちゃえば早いんだけど、、、娘氏を単に「つかうだけ」にさせないというのは、なかなか骨が折れますなあ。イマココ

◎パパのたんじょうび。

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保育園帰りに娘氏(年少)と、自転車で駅前の美味しいケーキ屋さんに行く

→デコレーションケーキがチョコしかないから「コレじゃない」らしい
→同じく駅前の不◯家にはイチゴのデコレーションケーキがあったけど「コレじゃない」らしい
→隣の駅まで電車で買いに行くと主張
→隣の駅の千◯屋のイチゴのケーキはホールケーキタイプではなく「コレじゃない」らしい
→並びのケーキ屋さんを4つ見て「コレ!」というケーキがあったのはただひとつ(マジ、あってよかった!泣)
→ろうそくも吟味の上「娘ちゃんが飾るからね!」とのこと
→お花屋さんに寄ろうか?と言うと「うん、お花も娘ちゃんが飾る!まるいのに飾る!」とのこと(この時点では私は花瓶に活けるのだと思ってた)
→何やらイメージがあるらしく、店内を吟味の上、花束とアレンジメントをひとつずつ選ぶ
→片方でいいのでは?と促すも「両方必要なの」とのこと
→娘氏が選んだアレンジメントが高い方だったので、安い方を勧めてみるも玉砕
→電車で最寄駅に戻り、自転車をピックして、ケーキを壊さないように慎重に帰宅(ああしんどw)
→帰宅と同時に、偶然にもパパ帰宅
→平日には珍しく、3人揃っての夕食
→夕食後に「娘ちゃんが飾り付けするからね!」と言って、たのしそうに飾り付け

 

という顛末の末に出来上がったのがこちら。
娘氏は、イメージ通りのものができたらしく、とても満足した雰囲気を醸し出してる。

 

なるほど、、、

 

これなら花束(プレゼント用)とアレンジメント(ケーキの飾り付け用)の両方が必要だし、たしかにアレンジメントのセレクトは最適だわ、、、と驚いたのは、わたしの方。。

 

なんか、保育園帰りに電車に乗ったり、お花をふたつも買ったり、やりすぎ(こどもの言うこと聞き過ぎ)かとも思ったけど、ダダを捏ねている風でもなく、何やら確信に満ちていてブレがなかったので、つきあったら、わたしの想像を超えるバースデイケーキになりました。

 

いまは、パパとお風呂に入ってます。

お風呂のしたくをしながら娘氏が

「最高のケーキパーティだったね!(来年の)43歳のときもこんな感じでできるといいね!」

とハツラツと一言。

 

パパも、とてもよろこんでました。

わたしも、つきあった甲斐がありました。

 

パパ、たんじょうびおめでとう!