◎「過去」に出会う? ーーー3歳児コソダテに関する、個人的ブレイクスルー。

f:id:okamoto4433:20160413151125p:plain

 

最近、こどもの発達と「(広義の)時間」が、どういう風に絡み合っているかに興味を持っています。で、過去に「こどもと時間」に関して勝手な考察を書いた記事があったな、と思い出して再掲。

 

ちなみに、この頃は、まだコソダテに迷走はしてませんでした。ただ、その予兆はあって(笑、うすうす気付いてはいたんだけど、その視点に共感してくれたのは、唯一、古くからのともだちひとりだけ、でした。でも実は、対象をひろげれば、共感してくれる人はもっといるのではないか?という気がするので、また折を見て書きたいと思います。

 

ーーー 2014年5月のFacebook投稿を再掲。

◎「過去」に出会う? ーーー3歳児コソダテに関する、個人的ブレイクスルー。

 

GWのブレイクスルーについて、「投稿は明日」といいながら、誰も興味ないだろうと思って投稿せずにいたら、「で、なにを発見したの?」と関心を寄せてくれる友人が複数人いたので、投稿してみることにしました。大半の方には、全然興味ない話だと思いますんで(笑、興味のある方だけご一読いただければ幸いですm(_ _)m

 

結論としては、

こどもが「重力」や「液体」という概念に体験的に出会うように、

「過去」や「時間の流れ」という概念も、体験的に学ぶのではないか?

という仮説にたどり着いて、個人的には超すっきりした、という話です。

 

 

こどもは「時間の流れ」や「過去」の概念を体験的に学ぶのではないか?という仮説は、トンデモ理論かもしれないけれども、個人的にはものすごくいろんなことが整理できました。

 

まだ赤ちゃんのころ、一緒にお風呂に入っていた時に、娘さんがものすごい集中力で「水面」に興味を持ったことがありました。私の勝手な観察では、次のようなことを確かめているように見えました。


・いつも寝ているところ(つまりベット)の「面」は叩いても自分の手が通過することはないのに、「水面」は手が向こう側にいっちゃうんだな
・いつも寝ているところ(つまりベット)の「面」とは違って、「水面」は形も変わるし、しぶきが跳ね返ってくるぞ
・水はつかめない


眉間にシワを寄せて、顔にかかるしぶきも気にしないで、力加減や手の形を変えて、何度も何度も水面にちょっかいを出しています。感触や、自分のアクションに対する水の反応を確かめているような、そんな雰囲気でした。このときに「彼女自身が「世界」を「確かめる」体験」を阻害してはいけないなあ、、、としみじみ思ったことは、わたしのコソダテの方針に大きな影響を与えています。

 

こんなふうにーーー重力の存在や液体の特徴という「オトナにとっては当たり前のこと」をこどもたちは体験的に発見して、理解するのと同じようにーーー、「時間には流れがあって、一応、一方通行ということになっている」ということや、したがって「過去というものは変えられないらしい」ということを、3歳前後で体験的に学ぶのではないか?、という仮説に辿り着きました。

 

GWに娘と過ごす間に、本人の意志が通らない場合の反応に違いが出てきたことに気付き、それが「未来選択型」と「過去拘泥型(覆水盆に返らず的な要因で号泣すること)」に分類できそうだという類型を発見して、「過去拘泥型」の方が本人のこだわりが強いようだ、ということに気づいたのが、ブレイクスルーのきっかけでした。また、2歳10ヶ月を過ぎたころから、本人の時間に対する感覚に厚みが出てきたように感じていた(それまでは「過去」がすべて「きのう」だったのが、時制に関する語彙も増え、本人の感覚ももう少し立体的に過去の記憶を整理できるようになってきたと思われる出来事が重なった)ので、3歳前後に「(広義の)時間」への敏感期のようなものが発動されるのでは?と考えた、という背景もあります。

 

(トーマス事件(http://goo.gl/hO8U4e)は未来選択型。本人の第一希望(先頭に乗る)が叶わないと分かっても、短い時間でそれ以外の選択を自らして、不機嫌だけど泣くこともなく、サッサと切り替えられる。過去拘泥型だと、第一希望へのこだわりが強くて、瞬間的に大粒の涙を流して号泣し、それ以外の選択肢には目もくれない。他にも手を焼いた号泣パターンが、すべて過去拘泥型であったことに気づく。)

 

いわゆるイヤイヤ期の典型的なシーンとしてあげられる、「エレベーターのボタンを自分で押したかったのに、誰かが押しちゃった!(号泣」というのは、「意志を持ったのに、思い通りにならないこともあるなんて!」という類の学習だけでなく、意志を持ったからこそ「すでに起こってしまった“意に沿わない出来事”は変えられないのか!」という事実に驚愕し、身を切られるような思いをして号泣しながら、「過去」という概念に出会っているのではないか?と考えてみました。

 

個人的には、娘さんが「未来選択型」のイヤイヤをこじらすことがあっても、一応は課題解決の途上にある「待ち」という感覚を持てるせいか、さほどのストレス無く付き合うことが出来るのですが、この「過去拘泥型」の号泣の相手が苦手でした。共感対応などしてみるものの本人の気持ちの切り替えを待てずに、「もう過ぎてしまったことなんだから、泣いても意味ないやん。悪いけど、この“1ミリも問題解決に向かわないムダな号泣”につきあっている暇はないぜー」という気持ちになってしまい(苦笑、要するに、全然彼女の気持ちに共感出来ていないわけで、本人にもそれが伝わってさらに悲しい気持ちになり、無限ループ、、、になっていました。

 

でも、このムダにしか思えなかった「過去拘泥型」の号泣が、「時間には流れがあって、一応、一方通行ということになっている」ということや、したがって「過去というものは変えられないらしい」ということに出会う体験だとしたら、全然ムダな号泣なんかじゃなくて、重力や液体に出会ったのと同じくらい重要な体験じゃないか!!!とマインドセットが切り替わったので、イライラしないで付き合えるようになりました。

 

(同時に、だからこそ、未来を自分で選択する小さな体験の積み重ねが大事だなとも思いました。過去は変えられないけど未来は選べるということを、呼吸をするくらい自然な思考習慣として身につけて欲しいと改めて。未来をオトナからの指図によって与えられ、過去は変えられないんじゃ、救いがないよね。笑)

 

最後に補足。
モンテッソーリの敏感期の考え方に、時間の概念への敏感期があるのかな?と思って調べてみたけど、ありませんでした。私のイメージでは、いわゆる数や時計的な「狭義の時間」ではなく、ひとつの次元としての「広義の時間」という概念と出会う時代があるのではないか、と考えたのですが、モンテッソーリにも書いてないし、トンデモ理論なんだろうなとがっかりしつつも(笑、まあ、個人的には方向性を見いだせたので、しばらくこの視点で観察してみて、心穏やかに彼女の「時間の流れ(過去)」との出会いに付き合いたいと思います。イマココ

 

そしてコソダテはつづく。。

 

追記(2014年5月掲載当時):

週末に、夫の学生時代からの友人が、遊びに来てくれました。彼は、文化人類学の研究者で、1歳半になる娘さんがいます。だから、このトンデモ理論に共感してもらえるかもしれない(笑)とほのかな期待を持って話してみると、たしかにおもしろがってはくれたのですが、「時間の概念もいろいろあって、僕たちとは全然違った認識もある。たとえば、未来こそ過去であるという考えで、過去にものすごいこだわるとかね」というさらに次元を超えたリアクションでした。爆笑

 

追記(2016年4月再掲時の追記):

当時、この投稿に夫氏からコメントがついて「クロノス的時間とカイロス的時間があって、娘氏はカイロス的時間と葛藤してると思ってます」とあった。それで、以下2つのメモが書き散らかしてあるのだが、またいろいろ布石が置かれていたことに気付いて悶絶。それが「秩序」というキーワードなのだが、この一年後に、モンテッソーリの先生に出会って、娘氏が「大変秩序感の強いお子さん」であることがわかったのである。秩序感の強いお子さんにとっての時間、というのは、堀りがいがありそうデスまる。


メモ(1):夫の解説を聞いて、まさにわたしが言いたかったことが「娘さんがいまカイロス的な(主観的)時間に出会っていて、クロノス的な(客観的)時間にはまだ出会っていなくて、「カイロス的な時間との出会い」に伴うカオスの真っ只中にあり、そのための葛藤であり混乱である」と表現できるということを理解。笑 わたしが書くと超長文なのに、夫が書くと2行で終わるという不思議。。。

メモ(2):夫の見解では、モンテッソーリでいう「秩序」の敏感期には、カイロス的時間との出会いによる葛藤についても含まれているはずで(というかまさにそのことを言っている、とのこと)、こどもたちの時間との出会いについても包含としている、らしい。

時間が秩序そのものである、ということはフツーに理解できるけど、モンテッソーリの要約では「いつもと同じ場所や手順」とか「誰のモノか?」という類の「秩序」を言っているように見えて、そこにカイロス的時間との出会いによる葛藤が含まれる、というのは、わたしの中ではいまのところ繋がらない。

時間が秩序である以上、含まれる、という説明はわかる。でもそれならば、秩序の敏感期が、言語の敏感期と同じくらい長い期間にわたるものとして整理しないと、説明がつかない気がするのだが、備忘録がてらメモ。