◎まさかの、カント!

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私が絶賛迷走中のコソダテ問題において、カントが助けになってくれそうだという感触を得た。夫氏推薦の「哲学用語図鑑」はたしかに良書で、哲学とは無縁だった私にも響く。すっかりカントに魅せられて「純粋理性批判」なる代表作を読みたいと思ったけど、夫氏の蔵書は難しすぎて歯がたたないと申し立てると、「カント入門」なる新書を薦められた。とりあえず目次に目を通したところでひるんでる状態だけど、でもここに謎をとく鍵がありそうだという予感だけを頼りに、なんとかがんばる所存である。読み始めたらカントの肖像画と目が合って、なんか知らんが涙でた、とFacebookに投稿したら、ともだちに「それは恋ですねw」と言われて、哲学者のおじいさまに恋する己の図に爆笑しつつ、たしかにそうかも…と思ってみたり。笑

 
わたしは、娘氏(4才終盤)の「不適切にみえる言動」に対して、何がスルーしてよくて、何がスルーしちゃいけない現象なのか、ブレない指針が欲しかった。それはどうも、倫理/道徳の問題らしく、カントが助けになるっぽい。ああ、やっとここまで来た!コソダテにムズカシサを感じ始めてから1年半もかかったよ。最初の半年は、1人で悶々とした。1年前くらいから、夫氏に何度も相談したし、本も読んだけど、私が「問題」と感じているものが複層的すぎて、明確に捉えきれなかったのだ。ここへきてようやく倫理/道徳の問題が糸口のひとつになりそうだ、という感触を得た。やっとここまで来た!ほんっとに嬉しいぜ!
 
生まれてから3歳半くらいまでは、「他者の命と自分の命をおびやかしてはいけない」ということだけが、私(と夫氏)が娘氏に求めた倫理だった。それに、最近になって「他者を自分の“道具”にしてはいけない」が加わった。この倫理を娘氏に求めることに自覚的になったのは、ほんの1ヶ月ほど前のこと。これだけでも、私はかなり楽になった。
 
 
わたしの迷走は、ちょうど1年半ほど前にさかのぼる。娘氏がまがりなりにも「日本語」を使い始め、「他者とのコミュニケーション」が始まったあたりから、急激にコソダテがムズカシイと感じるようになった。それまでは、イヤイヤ期なんて痛くも痒くもないくらいに、ある種の信念が自分を支え、迷いなくコソダテできたのに。もはや、立ち行かないのは明らかだった。
 
わたしは「言葉」に対して過敏なのだ。職業病ともいえるかもしれないが、自分の「言葉」に対するある種の厳密さが、自分を苦しめる。自分が瞬発的に発する「言葉」に必ずしも責任を持てないくせに、娘氏が瞬発的に発する「言葉」を厳密に受け取ってしまう。言葉は、本来とても不便な道具なのだ。オトナだって扱い切れないのに、ましてや語彙の限られた、思考力も発展途上の、感情さえも後天的に学ぶという説もあるくらいの幼児にとって、言葉がどれだけ不便な道具か、頭では分かっている。でも、自分の言葉への過敏さはほとんど反射的なもので、コントロールする術を知らず、感情も逆撫でられるし、無駄に心配もしてしまう。
 
一方で、職業病を持ち出すのなら、非言語の「観察」も得意なはずだ。クライアントのコトバにならないコトバを汲み取り、抽象概念を具体化して、コトを前に進めることも私の生業である。そこにはエスノグラフィー的「観察」があり、これまでのコソダテにおいては「観察」の得意に助けられた。娘氏の「非言語」の豊かな表現に、実に多くを学んだ。トイレトレーニングも、えんぴつも、おはしも、ひらがなも、娘氏をただただ観察し、娘氏の関心の所在と度合いを捉え、それに応じてちょっとだけ環境を整え、ちょっとだけ情報を与えれば、彼女は勝手にどんどん吸収する。なんの苦労もない。この手のことで叱ったことは一度もないし、迷いを感じたこともない。
 
しかし、観察対象が「言語」による「他者とのコミュニケーション」になった途端、わたしは何もわからなくなった。まるで「鳥のコトバ」を失ったニルスのように、娘氏が「非言語」によって表出している何かを観察する感度が鈍り、「日本語」として表出される「コトバ」にとらわれてしまう。わたしは「他者との(瞬発的な)コミュニケーション」が苦手なのだ。自分がわかっていないことは、手に余り、こぼれ落ちる。
 
悪いことに、そこに「社会性」や「しつけ」といった、これまた自分がよくわかっていないものが掛け合わさって、迷走が極まる。「社会性」も「しつけ」も、私は心の奥底で疑っている。そんなものいらなくね?、と思っている自分がいて、もっと言えば「社会」なるものに「適合」させてしまうことを恐れている。そのくせ、まったく不要だとは割り切れない。この振れ幅の大きい自己矛盾に疲れ果て、絶賛迷走中なのである。
 
幼児の日常には「不適切な言動」が溢れている。「ああ、そんなことを言ったら(したら)嫌われちゃうよ、、、」と心がざわつきながらも、一体、なにをどう伝えればいいのか。夫氏は「そもそも人間というものは自分と他人を区別することはむずかしいのだから、心配いらない」と言う。私のなかで混沌が極まって泣いても喚いても、一貫して「心配いらない」と言う。私も、そう思いたい。でもでも、本当にスルーしちゃっていいの?母親として、いま、この具体的機会を捉えて“教える”べきことは、本当にないの?と心がザワつく。自分が「不適切」と感じている言動は、本当に、4歳児においても「不適切」なのか?どこまでが、いまの娘氏に求めていいことで、どこからが過剰なのか?どこまでが「必要不可欠なしつけ」なのか?、なにが4歳児に求めてしかるべき「社会性」なのか?、、、わたしのなかに「不適切かもしれない言動」の個別事例を、すっきり整理できる軸がない。
 
「あなたがお友達にそう言われたら(そうされたら)、どんな気持ちがする?」「自分がされて嫌な気持ちになることは、他の人にしたらいけないよ」。これらの常套句は言い尽くした。たしかに、この常套句にはある種の真理があると思うし、これからも言い続けると思うけど、でも、わたしが求めているのは、そういうことじゃない。モンテッソーリ教室の信頼する先生が言う。「自愛が満ちれば、慈愛がうまれます。」なるほど、たしかにそうだ。ならば、さきほどの常套句は、本質的には不要のはずだ(そういえば、モンテの先生はこの常套句を使わない)。だって、常套句が教えるものは慈愛だよね。慈愛が自愛の末にうまれるものなら、こんな常套句はいらないはずだ。ならば、自愛を満たすためには、何が必要なのか。わたしが軸を間違えれば、慈愛を“教える”どころか、育まれるべき自愛さえも損なってしまうのではないか。もしかして、これまでの育て方が根本的に間違っていた、という可能性は??そんな不安さえ湧き上がる。
 
2歳を過ぎるまで、命に関わること以外は一切禁止をしなかった(もっとも、娘氏が自ら無茶をしない慎重派だったから出来たことかもしれないが)。2歳を過ぎて、最低限のマナーについては教えたが、ほとんど叱ったことはない。必要なのは説明することであり、待つことであって、叱る必要を感じなかったからだ。でも、3歳半を過ぎてから、叱ることが増えた。これまで叱られ慣れていないせいか、娘氏は「そのいいかたがこわい」と泣く。いきなり叱っているわけじゃないよね、最初は普通に優しく言ったよね、カウントダウンしても聞き分けないから叱ってるんじゃん、というのがこちらの言い分だ。しかし、号泣している娘氏に、叱られている「具体的理由」は届いていないようにみえる。これでは、自愛を損なってしまうのではないか、と叱るのがこわくなる。結果、叱るべき/叱る必要はない、の判断に迷いが生じる。もはや「命をおびやかさない」という倫理だけでは、立ち行かないのは明白なのに、自分のなかに軸がない。
 
幼児なんて、浅い視点でみたら「不適切な言動」だらけなのだ。でも本当に、それらは「不適切」なのか、いちいち迷う自分がいる。空気なんて読めなくていいし、オトナにとって「あら、いい子!」なんて方向に行かなくていいし、「常識」はうたがっていいのだと知って欲しい。歳相応の「社会性」だって、すでに身についてる。夫氏は、人間の脳の仕組みからいって「自分と他人を区別することはむずかしい」し、ましてや「他人を理解するというタスクはむずかしい」のだから心配はいらない、という。これらは、すべて真実だと思う。でも、どれも抽象度が高すぎて、日常の「現場」で咄嗟に判断する軸としては、使えない。
 
 
そんな絶賛迷走中のわたしのもとに、満を持してのカント先生の登場だったのだが、実は、その前に、いくつかのブレイクスルーがあった。何冊かの本に助けられ、尊敬する先輩オカンや、モンテッソーリの先生に助けられ、文字通り階段をひとつずつ昇ってきた感覚はある。でも、まだ問題の本質が、「肝」が、つかめていない感覚が残っていて、したがって、日常の「コソダテ現場」での迷いは相変わらず大きい。そこに、カントが現れるわけだが、その前に、もうひとつのブレイクスルーがあった。
 
ある幼児教育の専門家と出会い、私が疑問を感じているあらゆることに対して、個別相談という名を借りて、ディスカッションをさせてもらう機会を得た。曰く、うそ、いじわる、よくばり、わがまま、この4つ以外は叱らなくていい。なるほど、わかりやすい。でもちょっと待った。まだ「いじわる」だと感じたこと(娘氏の他者に対する悪意を感じたこと)はないけど、よくうそをつくし、しばしばよくばりだし、たいていわがままだ。笑 そこで、ウソについて個別具体的な事例に照らして質問してみると、わたしがモヤッとしていたウソは、問題なくスルーしていい類のウソらしい。その理由についても納得できた。なるほど!!!
 
このあたりで、わたしの脳内に明かりが灯り、ブレイクスルーが起きた。
 
「一見不適切にみえる言動」のなかに「自信を持ってスルーしていい領域」があるのならば、それを明確に掴めれば私は迷わない。そうか、わたしはソレが欲しかったのか!!自信をもってスルーしたかったんだ!!私の直感は、あれこれ言わなくていいと知っている。でも、娘氏の「決して最適ではない言動」を前にすると、心はモヤッとする。結果的には、まあ咎めるほどでもないし咎める言葉も知らないし、、、と為す術なくスルーするシーンが多く、このモヤッとがストレスだったのだ。モヤッとは不安だから。わたしが娘氏を不安視することは、きっと伝わってしまう。それが自愛を損ねやしないかと、地味に私の不安として跳ね返る。
 
うそ、いじわる、よくばり、わがまま、を自分のモヤッとしている具体的シーンに照らして、専門家とディスカッションをさせてもらえれば、モデリング出来るのではないかという希望がみえた。正直いって、社会的通念としてすでに持ち合わせてしまっている自分の感覚値では、幼児のうそ、幼児のよくばり、幼児のわがままを扱い切れないのだ。
 
このブレイクスルーについて伝えると、夫氏が言った。それは、佳美さんのなかの倫理の問題だね。カントを読んでみたらいいんじゃないかな?
 
そうか、倫理の問題なのか。そう考えると、自分のなかに「他者を自分の“道具”にしてはいけない」という倫理があり、それは自分が生きる上で、あるいは仕事をする上で、とても大切にしていることだし、夫婦で共有する倫理観でもある。そして、4才児であっても求められて然るべき倫理であろう、と腑に落ちた。もちろん「他者を自分の“道具”にしてはいけない」なんて言っても、4歳児にはわからないし、そんなことはいわない。でも、一見「不適切にみえる言動」の個別事例を観察する際の、わたしにとっての判断軸としては十分機能する。専門家のいう4分類のうち「わがまま」を因数分解すると、「他者を自分の“道具”にしてはいけない」という倫理に当てはまりそうだし、なるほど突破口が見えてきたような気がする。そう、私はこういう軸を掴みたかった。
 
かくして、カント先生の入門書の扉をあけ、哲学者のおじいさまに恋するに至る(笑。
命をおびやかさないこと、他者を自分の道具にしないこと。
それ以外に、私は娘氏に、なにを求めるのだろうか。
 
 
1年半も迷走してみて、まあ、悪いことばかりでもなかった。わたしは娘氏を根本のところで信頼しているのだな、とわかったから。娘氏の素晴らしい資質を、私がうっかり損なってしまわないだろうか、という恐れが迷走の正体らしい。私の迷走の根っこにあるのは、彼女への不安ではなく、自分への不安だったのだ。
 
迷走中は(厳密にはまだそのさなかだけれど)、自分のダメなところの鏡写しのようで辛かった。
自分が母親で申し訳ないような気持ちになったし、私の“悪影響”が娘氏に与える不都合が、不安でしかなかった。でも、自分の人生でまだ解けていない宿題に着手する感覚には、今後の人生を明るくする予感がある。
 
 
・・・正直言って、こういうめちゃくちゃ理屈っぽい話をしたためることには躊躇がある。ママ友は、なんかめんどくさい人だな、とドン引きしないだろうか。友人たちは、なんか偉そうなこと言ってるな、と思わないだろうか。先輩諸氏に、コソダテはアタマでするもんじゃない、とお叱りを受けないだろうか。でもまあ、しゃあないな、と思うに至った。こんな風にしか生きられないのに、そうじゃないふりをすることが自分を苦しめるのだろう。同じ苦しむならば、隠して苦しむより、晒して苦しんだほうがマシなのかもしれない。まあ、カントに恋するくらいだから、そもそも私はヘンジン路線なのだ。個人としてはそのように生きてきたのに、母親としてのワタシだけはフツーに、波風立てずに、マジョリティ路線で、、、というのが無理な話だったのだ。母親としても、ヘンジン路線を突き進むしかないではないか。笑