◎なんだ、それをさきにいってよ。
昨日は、NPO法人クロスフィールズの初の書籍出版を祝う、出版記念パーティでした。ごくごく内輪のパーティで、お世話になっている方々に金曜夜にオフィスにお集まりいただくスタイルだったので、子連れで少しだけ顔を出す予定にしていたのだけれど、その、子連れ参加にまつわる、ちょっとおもしろかった話。
数日前から出版記念パーティの話題を伝えておき、当日の朝「今日は保育園が終わったら、一度家に帰ってお着替えして、一緒に大地くん(一緒にキャンプなどに行っているので娘氏も知っている)のところに行こう。あんまり長居せずに、顔だけ出して帰る予定だよ」と伝えると、「わかったー」と言って夫氏と保育園に出掛けて行った。
で、保育園からの帰り道。自転車の後部座席から「ねえママ、かおをだすってどういういみ?」と聞かれた。「あー、そっか、慣用句は難しいよな」と思いつつ、それがこれから行く予定のパーティ関連の話題だということに気づくのに、若干時間を要した。
説明すると、突然「娘ちゃん、いきたくない」と目に涙をためて言うではないか。キタコレな、急展開。笑 「はずかしいし、こわいような気がするし、おうちに帰りたい」とのこと。「一旦おうちに帰る予定だし、落ち着いてからの出発でいいよ」とお茶を濁す。内輪のパーティだし、まあ別に行かなくてもいいのだけれども、3年越しの仕事だし、いちおうCommunication関係の理事だし、ねぎらいたいし、ご挨拶しておきたい方もいるし、まあ、顔出しておきたい、というのが、私の気持ち。18時から21時までのパーティだから、19−20時くらいに行く予定でいたけど、まあ閉会までに行ければいいか、、、と脳内スケジュールを書き換える。。
家に帰ると、持参する予定だったおにぎりを食べることになり、その勢いで夕食に突入。前日に観ていたメリー・ポピンズの映画の続きを観て、お気に入り映画なので、気分は上向いてきた様子だが、パーティに行ってくれそうな気配はなく、20時の声をきく前に声を掛ける。
「ママ、そろそろ行かなくっちゃ」というと、不服そうではあるが、グズることもなく、すぐに「はーい」と立ち上がってくれるではないか。で、ここからの展開が意外すぎた。
娘氏:大地くんのおうちに行くの?
ママ:違うよ。大地くんたちの会社に行くんだよ。そこでみんなでパーティしてるの。
娘氏:なんだ、それをさきにいってよ。
ママ:え?
娘氏:(超スッキリした顔で)かいしゃなら、おしごとじゃん。おしごとなら、いかなきゃだめじゃん。(自らどんどん手早く支度するw)
どうやら、「パーティ」という言葉のイメージから、おともだちの誕生会みたいなノリで、プライベートのお祝い的なものが想起され、自宅でワイワイやるものだと思っていたらしく、したがって参加は義務ではない、というイメージだったらしい。たしかに、娘氏は、あんまりワイワイしてる空間が得意じゃないらしくて、パーティとか、あんまりよろこんで行きたがらない。そっかー、そこだったのかー。笑
かくして、さくっと支度が終わって、さくっと会場入りして、後半戦に無事参加できたわけだが、プライベートのパーティには行きたくなくて、目に涙を溜めて抵抗を示すが、「会社」でやる「仕事」であればさくっと協力してくれる5才児に育っている、ということがわかった。。。笑
これは、娘氏的にはどういう感覚なんだろうな。。ママには仕事があって、それは「やった方がいいこと」である、と思っているらしい。それをサポートすることは、自分にとっても別にイヤなことじゃない、らしい。ちなみに、みんながワイワイと大騒ぎになるパーティはあまり好きじゃないらしくて、そんな感じのパーティに行くよりは、ママの仕事についていった方がいいらしい。結果的に、かなりワイワイした感じのパーティだったわけで、シチュエーションとしては自宅のパーティと変わらないと思うんだけど、この点は、どのように処理されているのだろうか?(謎)
もしかして、、、集団から外れる余地について、「会社開催>自宅開催」という感じでパターン認識してるのかしら???カオスが苦手で、集団のなかにあっても“誰にも干渉されない自分の時間”が保証されることにしあわせを感じるタイプっぽいので、会社の方が、その“安全地帯”を確保しやすい、というイメージを直感的に持っている可能性。。。いや、完全に妄想ですが。。。
実際の様子としては、最初に少し果物など食べさせてもらったあとは、部屋のすみの椅子で、黙々とぬりえに興じており、わたしはずっと大人の会話。かなり混みあった立食形式だったので、一応、娘氏の視界からは出ないようにしていたものの、大人の会話はフツーにできて、助かった。娘氏が周囲の喧騒をよそに、ひとり黙々と集中して塗り絵などに集中する姿は、本人にとってハッピーな時間であることはわかっていたし、わたし的には自然な姿だったので何とも思わなかったけれど、まわりのオトナは必ずしもそうではなかったみたいで、「おとなしくしてるね、こういう環境に慣れてるの?」と聞いてくれたり、「娘氏が楽しめているか?」とケアしてくださる方が、複数人いた(いま改めて思い出すと、有難すぎて泣けてくるなあ。みんな、なんて愛情に溢れたオトナたちなんだろう。涙)
そっか、、、考えてみれば、会場入りしてちょっとフルーツを食べたら、自ら「塗り絵やりたい」と申し出たので、場所を確保したわけだけど、私から「そろそろ塗り絵にしたら?」とか、「おとなしくしていてもらうために促す」みたいなことは、まったくしていない。そういえば、これはいつもそう。まあ、裏を返すと、カオスが苦手で、自分だけの「落ち着いた時間」が娘氏にとっての生命線。周囲がどんなに騒々しくてもお構い無しで、黙々と手元に集中できるのは、たぶん才能なんだろうな。そして、その才能にわたしは助けられ、ママの仕事をサポートすることと、自分の快適を両立させる術を、いつの間にか身につけてくれていたんだな。。
というわけで、「仕事」だとわかった瞬間からの娘氏の豹変ぶりが興味深かったので、記録。書いているうちに、いろいろ思い出したり、思考が進んだりして、単なる記録のつもりが、意外な展開になりました。笑
(到着早々、ママのおともだちが、果物をたくさん持ってきてくれて、おいしいブドウにご満悦の娘氏。こうして、周囲がさらっと自然にこどものケアをしてくれる風景に、改めて有り難さを噛み締めました。)
追伸:
そうそう、クロスフィールズ初の書籍出版、なかなか好評ですので、どうぞご笑覧くださいませ!
◎つながっている、について。
小学校の宿題で、戦争のことを調べてくる、というのがあった。まずは、幼少期に戦争を体験している父にヒアリングして、いろいろ聞いた。具体的な戦争体験のシビアな話もあったし、敵国語が禁止されて、カレーライスは「辛味入汁掛飯(からみいりしるかけめし)」と言ったとかいう、こどもなりに興味を持ちやすい話題もあった。
写真を世代で追えば、次は母となり、私となり、娘氏となる。母の写真は、どんな写真になるのだろうか?それは何を物語る?そして、私は?
>お盆と神話
祖母の一周忌での帰省だったので、お寺さんで読経などしてもらう。もろもろの法事が終わって、お茶の時間になると、いつも、お坊さんが家族に混じっていろんな話をしてくれるのだけど、今回の話題を要約すると、「人間が社会的な動物であり、決して、1人では生きられない」という話だった。ちょうど「人の関係性と、その依存関係」について深く考えるプロジェクトの真っ最中だったので、刺さった。そして、プロジェクトメンバーが「このプロジェクトの思想は仏教的だ」と言っていたのを思い出す。
また、お盆という風習や、神話についても少々。「日本では、お盆にご先祖様が帰ってくる、ということになっているけれども、本当のところは、私(お坊さん)にもわからない。でも、ご先祖様が帰ってきていると思って、振る舞うこと、に意味がある」と。「そんな国は、そうそうないですよ。なかなかいい国だと思います」と。どういうことなのか、ちょっと考えてみたい。
あの世、この世。かつては天国も地獄も、“この世”と“地続き”で自由に行き来できたのが、出来なくなった、という神話の話。神話の正当性や、信憑性は一旦横において、こういう、常識的な考え方からかなりズラされる視点を投げ込まれることは、個人的に好きなので、いろいろ考えることになった。人間が一般的に持っているとされる「死」への恐怖心は、何のためにあるのだろうか?もし本当に地続きだったなら、そういった恐怖は生まれなかった(必要なかった)はず。「死」への恐怖があることで、何がバランスしているのだろうか?
夏風邪で休んでいたとき、娘氏が「しむ(しぬ)のがこわい」と言った。わたしはこどもの頃から、あまり「しぬのがこわい」と思ったことがなくて、リアルにはその恐怖をわかってあげられないのだけれども、「この風邪でしんじゃうことはないから安心して大丈夫だよ」と言って、抱っこした。娘氏は、ひとまず安心した様子。私にとっての死への恐怖は、夫氏や娘氏といった、かけがえのない存在のソレ、こそが恐怖であり、自分自身の死ではない。この(自分自身の死に対する)感覚は、私のなかでは、初産の妊婦にとっての陣痛への恐怖と同じで、1)自分自身としては未体験ゾーンではあるが、2)どうせ避けられないとわかっていること、3)陣痛があることに意味があり無いと逆に困る事案であること(≒死なない方が怖い)、4)すでに大多数の人が体験済みのこと、であるからして、まあ多少のドキドキはあるけれども「考えても仕方ない案件」かつ「まあナントカナル案件」として処理されている。大雑把すぎるのだろうか?
ーーー
結論のない、夏の日の記録。
◎昨日と今日
◎なんのはなしだったの?
昨夜は夫婦共に夜に仕事があって、娘氏は夫氏の仕事についていってもらうことに。
偶然、気の合うおともだち(同じく年中さん)がママの仕事に付いてきていたので、もうゴキゲンで、嬉しそうに遊びまわっていたらしい。
で、今朝の話。
私が、夫氏に昨夜の仕事(広義の「システム」についてのディスカッション)の様子を聞いていたら、娘氏が、会話に割って入ってきた。とても真剣な目をしている。
曰く、ねえ、パパが帰りにお話してたのは、何の話だったの?
夫氏は、どうやら、帰り際の立ち話で、人間の脳の認知獲得について話していたらしかった。夫氏は、それをどう説明するのかと思ったら、、、次のような展開になった。
夫氏:
娘ちゃんとパパがいて、おじいちゃんがいるでしょ。
娘ちゃんとパパは、親子だけど違ってて、パパとおじいちゃんも、ちょっとずつ違うでしょ。
そんな風に、ちょっとずつ違っているんだけど、そのまたおじいちゃんの、おじいちゃんの、ってどんどんどんどんつながっていくと、おさるさんになるの。
で、そのおじいちゃんのおじいちゃんの、ってどんどんどんどんつながっていくと、おさかなになるんだって。
娘氏:
ふーん。すっごいつながってるの?ぜんぶ?
夫氏:
そう。すっごくたくさんつながってるの。
娘氏:
ふーん。にんげんがはじまり?
夫氏:
人間ははじまりじゃないけど、人間からみて、人間をはじまりとして、さかのぼってかんがえると、そうなるってことかな。
娘氏:
それは、(手で大きく円を描いて)こういうふうに、つながってるの?
夫氏:
そういうふうには、つながっていない。
娘氏:
あの、おうまさんがいるでしょ。はじめちゃんとか、あられちゃんとか(いずれも馬の名前)。
で、(手で大きく円を描いて)こんなふうに(馬場を歩いて)もどってくるでしょう?
こういうふうには、つながっていないの?
夫氏:
そういうふうには、つながっていない。
でも、おうまさんも、はじめちゃんのおじいちゃんのおじいちゃんの、そのまたおじいちゃんってなると、娘ちゃんのつながっているところとおんなじところにつながるよ。
まあ、おばあちゃんでも、いいんだけど。
娘氏:
へえ。(ひとしきり満足した様子で、自らソファを降りた。)
私が、じゃあ、ママもつながってるのかな?って言ってみたら、
にんげんなら、べつに、娘ちゃんでも、ママでも、誰でもいいんだけど。
と返された。。。
昨夜、娘氏は、夫氏の立ち話のどこに、興味をそそられたのだろうか。
おそらく、猿から人間への進化のプロセスのなかで、脳の進化や、認知のプロセス、みたいな話をしていたのではないかと思われるのだけど。
一夜明けて、会話に割って入ってまで質問するくらいには、印象深かったのだろうと思われ、つくづく、こどもは科学に対してとてもフラットでオープンな存在なのだと思い知らされる。
こういう存在が欲している知的刺激は、文科省の学習指導要領で担保されているんだろうか。。。
なんて考え始めると止まらないから、今日のところはやめておく。
でも、こどもが知的にひらかれている存在だということを忘れないために、記録。
◎はだいろ
Facebookでこの記事(上のリンク)が流れてきて、とても共感した。
というのも、つい先日のこと、自画像を描いていた娘氏(年中)が、途中まで描き進められた画用紙の上に自分の腕を照らして、ものすごく真剣な眼差しで首をかしげていた。
(左が年少のとき、右が今回)
あまりに真剣なので、どうしたの?と声をかけると、「うすだいだい(以前ははだいろと言われていた色)と、娘ちゃんのはだの色は、全然ちがうよ」と言った。それで、腕への光の当て方を変えながら観察していたのだな、とわかった。
「そうかあ、よく気付いたね」と言いつつ、うすだいだいと名前を変えても、はだいろとしての認識を持つんだなあと思いつつ、わたしはその場を去った。本人はこの発見を、ポジティブにもネガティヴにも捉えておらず、ニュートラルな不思議の発見のひとつ、という体験のよう。
夕食後に、娘氏がそんな観察をしていたことを夫氏に伝えていると、娘氏がすっきりした顔で「あのね、うすだいだいに、すこーしだけ茶色の絵の具を混ぜたらいいんだよ」と言った。娘氏なりの観察と考察は終わったらしい。
うすだいだいと名前を変えたことには、一定の意味があると思う。でも、それだけじゃなくて、こういう下着ブランドのような選択肢が提示されることの意味は大きいなと思う。
◎成長の密度。
昨日、この写真の数時間前に、娘氏(5才2ヶ月)は、突然「自分の5歳の誕生日は、もう一生訪れることはない」ということに気づいたらしく、道端で号泣し始めた。ぜんぶで30分くらい泣いたかなあ?
すごい大きな声でわんわん泣いた。そのうち、ママのバカ、とか言い始めたので、それは違うよね、という指摘ははさみつつ、気が済むまで泣けばいいさ、というつもりで適当なベンチに座った。すごい勢いで泣いてるけど、ママの、、、の先だけは言わないように自分なりに制御してる。
ひとしきり泣いて、そろそろ泣き止まないとその後本人がやりたがっていたことが出来なくなる可能性があることを伝えつつ、このまま泣くか、やりたいことをするか、選んでもらうと、号泣しながら前に進んだ。目的地に着くまで歩く間も相変わらず号泣してたけど「帰らない、行く」という。「泣いていたら入れないよ」と再び選択を促しつつ、目的地の目前で「10かぞえてごらん。もし行きたいなら、そろそろ時間だから、ゆっくり10かぞえて、落ち着いたらおいで」と言って先に角を曲がる。金網越しに娘氏の姿が見える視界だけ確保して、目線を合わせてしゃがみ、待っていると、次第に落ち着いて、てくてく歩いてきた。
「一生に一度しか、5歳の誕生日は来ない」ということに真の意味で自覚的になったとき、ここまで絶望できるのはすごいなと思った。悪態をついても、それは八つ当たりだとほんとはわかってて、指摘されれば、号泣のさなかにあっても「それは言わないように、、」と懸命に自制する。その自制自体が新たなストレスになっていることは明らかだけど、それでもこらえる姿をみて、すごいなと思った。時間があれば、好きなだけ泣かせてやりたかったけど、本人のやりたいこととのトレードオフだから自分で選んでもらうしかないわけだが、あんだけ絶望に満ちた号泣をしながらも、「いまここ」はちゃんと掴んだまま手放さずに、前に進むのだな、というのも関心した。絶望に乗じてすべてを投げ出してしまわずに、留まる感じ。
なんか、成長に密度を感じるというか、とても大きな人間に見えた。
で、この写真の1時間くらい前に、「ままそのねくれすとてもすてきだね」というお手紙をくれた。絶望の淵から帰ってきたのだね。
で、この写真の数時間後に、なんの脈絡もなく、ママうらやましいなあ、と言った。そう?と返すと、「やっぱり(自分)ちゃんがいいや。わたし、(自分)ちゃんでよかった。わたし、自分のこと、だーいすき。ニコッ」と言った。おそらく、はじめての言葉。
自己肯定感とか、ほんと難しい。自己肯定感が育つように、損なわないように、とひたすら願って接してきたつもりだけど、いったい自己肯定感とやらは育っているのか、よくわからない。でも、昨日は、ちゃんと本人の頭と心と肚が一本通ったような佇まいと声で、「自分でよかった」と言う姿をみせてもらって、おどろきつつ、ひとまずは安心した。
ひとつひとつは、何気ない日常からたちのぼる、何気ないワンシーンで、わかりやすくスポットライトが当たっているわけじゃないけど、日常はあなどれないなあと、しみじみ思う。
◎あいさつを哲学すると。
Facebookのタイムラインに、尊敬する西條先生の記事が流れてきた(上のリンク)。記事の本論とはまったく違う文脈で恐縮なのだけれど、ひとつ発見があったので備忘録がてら書いてみる。
以下引用。
例えば、「挨拶」とは何か。ある人にはするけれど、皆にするわけではない。でも、挨拶がない国ってきっとない。登山をしているときには比較的挨拶をするけれど、道端で突然挨拶をしたら驚かれる場合もある。挨拶って何なのだろう?人はなぜ挨拶をするのだろう?
授業では、そうした問いを投げかけていました。そのとき得られた答えが、「相手の存在を肯定する最も簡単なサイン」というものでした。
そう考えると、職場で挨拶をしないというのは、いちばん簡単な存在承認すらしていない、ということになる。いわば存在否定をしているわけですから、そんな職場が、うまくいくわけがない、ということを論理的に理解できるようになります。
娘氏(5才ほやほやw)は、「挨拶」ができるときとできないときがある。
一方で「ありがとう」は、嬉しい気持ちや助かった体験などを同時に味わっているので「本質的な意味」がわかるらしく、だいたいにおいて言える。初対面だろうと、言語が違う相手であろうと。
でも、「挨拶」は出来る場合と出来ない場合があって、かねてより、どうも「挨拶」の「本質的な意味」が腑に落ちていないようにみえるなあ、と感じていた。もちろん、照れているとか、はずかしいとかもあるけど、そればかりでもなさそう、という感じ。
それで、冒頭の「挨拶とはなにか?」の真理に触れて、オトナとしてはとても腑に落ちるし、ある意味で、娘氏は自分なりの世界観のなかで、すでにこれを実践しているともいえるのだな、という発見をした。見知った人や大好きな人への挨拶は、こちらが驚くほどの快活さをみせるし、あるいはテンション低めの挨拶だったとしても、決して相手の存在を無視したりはしないのだから。それは、逆のことをされたらかなしい、ということが腑に落ちているからだろう。
一方で、挨拶できない場合のケースに当てはめて考えてみると、たしかに本当の意味で「相手の存在を肯定することの重要性」を理解するのは難しいだろうな、と思った。娘氏は、たとえばマンションのエレベーターでほんの少しの時間一緒になっただけの居住者が、娘氏に挨拶をしてくれなかったとしても、「ああ!自分の存在が否定されたわ!なんてこと!涙」なんて思わない。ましてや、初対面の人への警戒心が強い娘氏にとって、よく知らないオトナの「存在を肯定したい」、という欲求は育まれていないだろう。
娘氏が、全方位的に「挨拶の真理」に気づき、腹に落とすには、もう少し時間が掛かるのだろうな。つまり、なにかもっと切ない気持ちを味わう体験をしないと、わからないのかもしれないな、と個人的に大変腑に落ちた。
*
、、、とここまで書いて、西條先生なら「相手の存在を肯定する最も簡単なサイン」を幼児にもわかるように説明しようとしたら、どんな風になさるのだろう、、、と思ってみたり。。
実は、わたしはそれを、見出だせないでいる。
「好き/嫌い」「味方/敵」のような幼児の生活にも馴染んでいる語彙では説明できなくて、むしろミスリードしてしまう気がするのだ。娘氏にとっては、好き(あるいは味方)でも嫌い(あるいは敵)でもない、自分にとってニュートラルな存在で同時にまったく無関係でもない相手、への挨拶をこそ、謎なのだから。あるいは、娘氏の存在自体が素晴らしくてママはそれだけで嬉しい、ということは伝えているつもりだが、それと「挨拶」もどうも距離があって、むずかしい。。。
*
とかく、挨拶は理屈抜きに、あるいは強行的に「こうするもんだ!」と教え込めばよいのだ、という考えもあるのはわかるし、それを否定するものではない。それくらい、挨拶ってだいじなことだと思うし。しかしながら、どうも娘氏の場合には、その手段が裏目に出ることはあっても、効果的ではなさそうなのである。みなさまからお叱りを受けながら、娘氏には地道に自らの実践を見せつつ、出来ることと出来ないことの両方を発見し、認めながら、長い目で見守りたい。イマココ
追記:
ちなみに、西條先生は「「構造構成主義」という、物事の本質をとらえる学問について研究(記事より引用)」なさっている方で、東日本大震災のときに、その研究者としての知見を惜しみなく発揮して「ふんばろう東日本支援プロジェクト」を立ち上げられた方です。ひとことで言うと、必要な人に必要な支援を必要な分だけ、届ける仕組みを作られたのです。すごい!その時の体験をまとめられたご著書が「チームの力 ー構造構成主義による“新”組織論ー」で、組織やシステムについて悩み多き方にはとてもオススメです。
今回の熊本の震災では、それらの教訓や叡智を集結して、より洗練した仕組みを「スマートサプライ」というプロジェクトでご提供なさっています。第一弾の支援は完了していますが、今後も続々とニーズが届くと思いますので、ご興味のある方はぜひ下記リンクをご覧くださいませ!