◎「過去」に出会う? ーーー3歳児コソダテに関する、個人的ブレイクスルー。

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最近、こどもの発達と「(広義の)時間」が、どういう風に絡み合っているかに興味を持っています。で、過去に「こどもと時間」に関して勝手な考察を書いた記事があったな、と思い出して再掲。

 

ちなみに、この頃は、まだコソダテに迷走はしてませんでした。ただ、その予兆はあって(笑、うすうす気付いてはいたんだけど、その視点に共感してくれたのは、唯一、古くからのともだちひとりだけ、でした。でも実は、対象をひろげれば、共感してくれる人はもっといるのではないか?という気がするので、また折を見て書きたいと思います。

 

ーーー 2014年5月のFacebook投稿を再掲。

◎「過去」に出会う? ーーー3歳児コソダテに関する、個人的ブレイクスルー。

 

GWのブレイクスルーについて、「投稿は明日」といいながら、誰も興味ないだろうと思って投稿せずにいたら、「で、なにを発見したの?」と関心を寄せてくれる友人が複数人いたので、投稿してみることにしました。大半の方には、全然興味ない話だと思いますんで(笑、興味のある方だけご一読いただければ幸いですm(_ _)m

 

結論としては、

こどもが「重力」や「液体」という概念に体験的に出会うように、

「過去」や「時間の流れ」という概念も、体験的に学ぶのではないか?

という仮説にたどり着いて、個人的には超すっきりした、という話です。

 

 

こどもは「時間の流れ」や「過去」の概念を体験的に学ぶのではないか?という仮説は、トンデモ理論かもしれないけれども、個人的にはものすごくいろんなことが整理できました。

 

まだ赤ちゃんのころ、一緒にお風呂に入っていた時に、娘さんがものすごい集中力で「水面」に興味を持ったことがありました。私の勝手な観察では、次のようなことを確かめているように見えました。


・いつも寝ているところ(つまりベット)の「面」は叩いても自分の手が通過することはないのに、「水面」は手が向こう側にいっちゃうんだな
・いつも寝ているところ(つまりベット)の「面」とは違って、「水面」は形も変わるし、しぶきが跳ね返ってくるぞ
・水はつかめない


眉間にシワを寄せて、顔にかかるしぶきも気にしないで、力加減や手の形を変えて、何度も何度も水面にちょっかいを出しています。感触や、自分のアクションに対する水の反応を確かめているような、そんな雰囲気でした。このときに「彼女自身が「世界」を「確かめる」体験」を阻害してはいけないなあ、、、としみじみ思ったことは、わたしのコソダテの方針に大きな影響を与えています。

 

こんなふうにーーー重力の存在や液体の特徴という「オトナにとっては当たり前のこと」をこどもたちは体験的に発見して、理解するのと同じようにーーー、「時間には流れがあって、一応、一方通行ということになっている」ということや、したがって「過去というものは変えられないらしい」ということを、3歳前後で体験的に学ぶのではないか?、という仮説に辿り着きました。

 

GWに娘と過ごす間に、本人の意志が通らない場合の反応に違いが出てきたことに気付き、それが「未来選択型」と「過去拘泥型(覆水盆に返らず的な要因で号泣すること)」に分類できそうだという類型を発見して、「過去拘泥型」の方が本人のこだわりが強いようだ、ということに気づいたのが、ブレイクスルーのきっかけでした。また、2歳10ヶ月を過ぎたころから、本人の時間に対する感覚に厚みが出てきたように感じていた(それまでは「過去」がすべて「きのう」だったのが、時制に関する語彙も増え、本人の感覚ももう少し立体的に過去の記憶を整理できるようになってきたと思われる出来事が重なった)ので、3歳前後に「(広義の)時間」への敏感期のようなものが発動されるのでは?と考えた、という背景もあります。

 

(トーマス事件(http://goo.gl/hO8U4e)は未来選択型。本人の第一希望(先頭に乗る)が叶わないと分かっても、短い時間でそれ以外の選択を自らして、不機嫌だけど泣くこともなく、サッサと切り替えられる。過去拘泥型だと、第一希望へのこだわりが強くて、瞬間的に大粒の涙を流して号泣し、それ以外の選択肢には目もくれない。他にも手を焼いた号泣パターンが、すべて過去拘泥型であったことに気づく。)

 

いわゆるイヤイヤ期の典型的なシーンとしてあげられる、「エレベーターのボタンを自分で押したかったのに、誰かが押しちゃった!(号泣」というのは、「意志を持ったのに、思い通りにならないこともあるなんて!」という類の学習だけでなく、意志を持ったからこそ「すでに起こってしまった“意に沿わない出来事”は変えられないのか!」という事実に驚愕し、身を切られるような思いをして号泣しながら、「過去」という概念に出会っているのではないか?と考えてみました。

 

個人的には、娘さんが「未来選択型」のイヤイヤをこじらすことがあっても、一応は課題解決の途上にある「待ち」という感覚を持てるせいか、さほどのストレス無く付き合うことが出来るのですが、この「過去拘泥型」の号泣の相手が苦手でした。共感対応などしてみるものの本人の気持ちの切り替えを待てずに、「もう過ぎてしまったことなんだから、泣いても意味ないやん。悪いけど、この“1ミリも問題解決に向かわないムダな号泣”につきあっている暇はないぜー」という気持ちになってしまい(苦笑、要するに、全然彼女の気持ちに共感出来ていないわけで、本人にもそれが伝わってさらに悲しい気持ちになり、無限ループ、、、になっていました。

 

でも、このムダにしか思えなかった「過去拘泥型」の号泣が、「時間には流れがあって、一応、一方通行ということになっている」ということや、したがって「過去というものは変えられないらしい」ということに出会う体験だとしたら、全然ムダな号泣なんかじゃなくて、重力や液体に出会ったのと同じくらい重要な体験じゃないか!!!とマインドセットが切り替わったので、イライラしないで付き合えるようになりました。

 

(同時に、だからこそ、未来を自分で選択する小さな体験の積み重ねが大事だなとも思いました。過去は変えられないけど未来は選べるということを、呼吸をするくらい自然な思考習慣として身につけて欲しいと改めて。未来をオトナからの指図によって与えられ、過去は変えられないんじゃ、救いがないよね。笑)

 

最後に補足。
モンテッソーリの敏感期の考え方に、時間の概念への敏感期があるのかな?と思って調べてみたけど、ありませんでした。私のイメージでは、いわゆる数や時計的な「狭義の時間」ではなく、ひとつの次元としての「広義の時間」という概念と出会う時代があるのではないか、と考えたのですが、モンテッソーリにも書いてないし、トンデモ理論なんだろうなとがっかりしつつも(笑、まあ、個人的には方向性を見いだせたので、しばらくこの視点で観察してみて、心穏やかに彼女の「時間の流れ(過去)」との出会いに付き合いたいと思います。イマココ

 

そしてコソダテはつづく。。

 

追記(2014年5月掲載当時):

週末に、夫の学生時代からの友人が、遊びに来てくれました。彼は、文化人類学の研究者で、1歳半になる娘さんがいます。だから、このトンデモ理論に共感してもらえるかもしれない(笑)とほのかな期待を持って話してみると、たしかにおもしろがってはくれたのですが、「時間の概念もいろいろあって、僕たちとは全然違った認識もある。たとえば、未来こそ過去であるという考えで、過去にものすごいこだわるとかね」というさらに次元を超えたリアクションでした。爆笑

 

追記(2016年4月再掲時の追記):

当時、この投稿に夫氏からコメントがついて「クロノス的時間とカイロス的時間があって、娘氏はカイロス的時間と葛藤してると思ってます」とあった。それで、以下2つのメモが書き散らかしてあるのだが、またいろいろ布石が置かれていたことに気付いて悶絶。それが「秩序」というキーワードなのだが、この一年後に、モンテッソーリの先生に出会って、娘氏が「大変秩序感の強いお子さん」であることがわかったのである。秩序感の強いお子さんにとっての時間、というのは、堀りがいがありそうデスまる。


メモ(1):夫の解説を聞いて、まさにわたしが言いたかったことが「娘さんがいまカイロス的な(主観的)時間に出会っていて、クロノス的な(客観的)時間にはまだ出会っていなくて、「カイロス的な時間との出会い」に伴うカオスの真っ只中にあり、そのための葛藤であり混乱である」と表現できるということを理解。笑 わたしが書くと超長文なのに、夫が書くと2行で終わるという不思議。。。

メモ(2):夫の見解では、モンテッソーリでいう「秩序」の敏感期には、カイロス的時間との出会いによる葛藤についても含まれているはずで(というかまさにそのことを言っている、とのこと)、こどもたちの時間との出会いについても包含としている、らしい。

時間が秩序そのものである、ということはフツーに理解できるけど、モンテッソーリの要約では「いつもと同じ場所や手順」とか「誰のモノか?」という類の「秩序」を言っているように見えて、そこにカイロス的時間との出会いによる葛藤が含まれる、というのは、わたしの中ではいまのところ繋がらない。

時間が秩序である以上、含まれる、という説明はわかる。でもそれならば、秩序の敏感期が、言語の敏感期と同じくらい長い期間にわたるものとして整理しないと、説明がつかない気がするのだが、備忘録がてらメモ。

◎トイレトレーニング雑感(3)ーーーその後、半年が過ぎて。

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(写真はトイレトレーニングが終わったころの、おみせやさんごっこ。)

 

※過去の投稿を再掲して欲しい、という声をいくつかもらったので、ブログに転載してみます。

◎トイレトレーニング雑感(1)ーーー 「コソダテ」と「目標」の話。 - 未来を編む。blog

 

◎トイレトレーニング雑感(2)ーーー実践編。個別ケース事例と、ラップアップ的な考察メモ。 - 未来を編む。blog

 

ーーー 2015年3月の投稿を再掲 ーーー

 

3才10ヶ月時点の備忘録を兼ねて、前回投稿で【まだ出来ないこと】として列挙した内容の経過メモなど。
※ブログ再掲にあたって、4才10ヶ月時点の変化を追記しました。

 

【(2014年8月@3才4ヶ月時点の)まだ出来ないこと】ーーーーーーーー
1)終日、親からの声掛け無しで勝手に自己完結する状態になるのが本当のゴールかな?

→その後(3才10ヶ月時点):
・声掛けなしでも自分から行くようになっているが、まだ「勝手に自己完結してくれる状態」ではない
・下記2,3とも関連するが、娘氏が在宅中はトイレのドアを開けっ放しにしてあり、トイレの電気は自分でつけるブームなので「おしっこー!」と宣言してから、自分で移動して、諸々済ませ、服を着て、流して、リビングに戻ってくる、という確率はかなりあがった。
・ただし、たまに拭かずに済ませていることもあるっぽい、たまに流してないっぽい、手を洗ってないことが多いような気がする。
・「一緒に来て!」というリクエストはあまりなくなった。以前は、廊下とトイレが暗いことを理由としたリクエストだったっぽいので、廊下の電気をつけっぱなしにしてみたのだが、その後、自己完結率があがったような気がする。

 

→その後(4才10ヶ月時点):
・一年前から、親が新たに心掛けたことは特に無く、本人が成長にともなって自然と習得していった感じ。
・99%勝手に自己完結状態。少なくとも、親からの声掛け無しに、自分の身体感覚にほぼ100%対応できる。
・一部、旅先での長時間移動の前などは、親から事情を話して声掛けをし、本人に身体感覚がなくても一応トイレに行っておく、という習慣を刷り込み中。事情は理解できる(将来のリスクを想像できて、リスクに応じて、現在のベターな行動を判断できる)らしく、トイレには行ってくれるし、だいたい出るので助かる。
・3才10ヶ月時点からの変化としては、拭く(うんち含む)、流す、手を洗う、電気を消す、扉を閉める、という流れは、親に言われなくても必ずできる。ただ、手を洗うといっても、ちょこっと濡らしている程度にみえるが、まあ「習慣化させて、やらないと気持ち悪い状態」に持っていくことを優先して、あまり細かいことは指摘しないようにしている。
・「一緒に来て!」というリクエストは継続中で、それが−1%。暗いところに1人でいくのがいや、という感じ。手が離せないときは「すぐに追いかけるからさきに行っててー」という声掛けをすることもあるが、その場合も、トイレに間に合わなくなるまで親を待つことはせず、用を足すことを優先できる。

 

2)トイレの電気をつける、という工程への興味が薄れて、自分でやらなくなった(停滞期)

→その後(3才10ヶ月時点):
・本人と「トイレの電気スイッチの下に台を再設置するかどうか」を相談する機会があり、「置く」と言うので設置したところ、ブーム再燃。
・いま偶然にも、マンションのエレベーターボタンのこれまで届かなかったゾーンに届くようになったよろこびが爆発している時期なので、「高いところにあるスイッチ」を自分で押すことへの関心が高め。

 

→その後(4才10ヶ月時点):
・変化なし。台を置いておけば、自分でやる。

 

3)トイレのドアノブが自力で開けにくいタイプなので、しばらくは様子見だが、もうすこし背が伸びたらできるかな?

→その後(3才10ヶ月時点):
・変化なし。

 

→その後(4才10ヶ月時点):
・相変わらず、自分でドアノブを開けるのは難しいらしいので、扉はしめてあるけど開けやすい状態、にしてある。
・一年前からの変化は、「トイレが終わったら扉を閉める習慣」を身につけてもらうことが学習ポイントになったので、トイレの扉が開けっ放しの状態にはなっていないこと。トイレが終わったら、本人に扉はしっかり閉めてもらうけれども、そのあと、わたしが軽く開けておいて、次のトイレで自分で開けられるようにしてある。
・ドアノブまわしは、いまも出来ないこともないけど、トイレに行きたい気持ちが高まっていると慌ててしまって落ち着いてできないので、扉をあける工程については、本人の身体的成長を待っている状態。
・そういえば、トイレに行く時についてきて欲しいのは、扉があけにくい、と思っているからかも。開けやすい状態にしてあるから必ず自分で問題なくあけられることを本人に伝えたら、ついてきて!が減るかも?

 

4)自宅では甘えたいらしく、脱衣を手伝うことが多いのだが、考えてみたら手伝って欲しいという明確な要請がある場合と、ない場合があるので、そこを見極めてから手を出すようにしたい

→その後(3才10ヶ月時点):
・いまは、おまるで排泄することは皆無なので、そもそも完全に脱衣することもなく、足元にクシュッとしている状態のため、自分でやる。
・たまに「手伝って」とリクエストされることがあり、その場合は手伝うが、あまりリクエストされない。

 

→その後(4才10ヶ月時点):
・99%自分でやる。たまにリクエストされるが、まあ許容範囲。

 

5)トイレットペーパーを切る技術の習得には、しばらく量稽古が必要っぽい

→その後(3才10ヶ月時点):
・だいぶ上手に出来るようになった。保育園で「トイレットベーパーは3回まわすのが適量で、少なくても多くてもダメ」という学習をしているらしく、「いーち、、、にーい、、、さーん、、、」と律儀に数えている。笑(保育園ネ申!)
・だがどうも、拭かずに済ませていることもあるっぽい。傾向としては、目の前の「トイレシール」に関心を持った場合に、その傾向があるような気がする。。。
・うんちはまだ自分では拭けないっぽいが、そういえば、私も意向を確認せずに手伝っていた気がするので、ちょっと自己完結を促してみたい。
(たが、、、大人トイレに補助便座を付けずに座っているので、後ろ側に手をまわして拭くとなると、重心が後ろに傾くこととなり、落ちるのではないだろうか?笑)

 

→その後(4才10ヶ月時点):
・だいぶ上手に切れるようになったが、くしゃくしゃにするスタイルを身に着けているらしい。私としてはキレイに畳んで欲しいが、まあ細かいことは指摘しない。笑
・うんちも自分で拭けるようになった。手順を質問してみたら的確だったので、問題ないと思われる。身体的にも大きくなったので、昨年のような「バランスを崩すのでは?」という心配もない。
・ある意味、成長に伴う変化としては、トム&ジェリーのトイレットペーパーを使っており、絵柄の切れ目を気にする、という新しい関心が芽生えて若干面倒。笑 トムやジェリーのカラダを途中で分断するのがしのびないらしいのだが、そんなことを言っているとなかなか切れるポイントがないので、私がトイレットペーパーを切る&拭く、となるシーンも多い。まあ、かえって「トイレに大量の紙を流すと詰まってしまって、水があふれて大変なことになる」という学習機会になった、と好意的に捉えるとして(笑)、そろそろトイレトレーニング目的で本人の気を惹くアイテムを置いておかなくてもよさそうなので、白いトイレットペーパーにしようかな。イマココ

 

6)おまると大人トイレは気分次第なのだが、おまるでした場合の処理もおねがいしたいが、さすがにリスキーか?笑

→その後(3才10ヶ月時点):
・完全に大人トイレに移行完了。
・きっかけは、秋におまるをガッツリ洗った際に「もうこれ使わないでいいかな?」と聞いてみたら、「うん」と言ったので。
・踏み台に変形できるタイプだったので、上記と同時に大人トイレの足元に踏み台としてセット(それ以前は、大人トイレでする際は、抱っこして座らせていた)。
・その後、年末の大掃除で踏み台をガッツリ洗う際、踏み台がない状態で大人トイレに器用によじ登っている様子を見たので、本人に確認したところ「もう踏み台はいらない」ということで踏み台撤去。
・踏み台を、トイレの電気スイッチの下に設置。イマココ

 

→その後(4才10ヶ月時点):
・変化なし

 

7)失敗した場合の処理工程も、可能な限り推進して欲しいので、食べ物をこぼした場合などに情報提供&機会提供中。雑巾を取りに行くまではクリアだが、過不足なく拭く、の練習中。あまり関心はないらしく、食い付きが悪い。笑

→その後(3才10ヶ月時点):
・ほとんど失敗しないが、たまの失敗時の処理工程には本人興味示さず。苦笑

 

→その後(4才10ヶ月時点):
・変化なし。

 

【その他の変化など(3才10ヶ月時点)】
1)和式トイレ攻略
・和式トイレを使えるかどうかが次の課題、というアドバイスを先輩ママから聞いたので、公園やキャンプ場などで試してみたところ、問題なく使えたので、ホッと胸をなでおろしたのが秋。
・勝因は、使用していたおまるが、洋式トイレの便座に補助的に設置するタイプではなく、伝統的なおまるタイプにしたことかも?
・はじめて和式トイレを見たときに「おまるの大きいの、みたいな感じだよ。和式トイレ、って言うの」と説明したら、あっさり納得して、普通に使っていたので。厳密には「おまるは座る」で「和式トイレはしゃがむ」だが、足元にある便器をまたいで座る、という共通項で認識したために、「座る」と「しゃがむ」の違いはスルー出来たということか?というのが所見(娘氏の場合)。
・ちなみに、大人トイレの使用にあたっては、補助便座を使ったことはないが、まったく問題を感じなかった。雑感2にも詳述した通り、おまるの最大の特長である「可動式であること」は、本人のトイレトレーニングへの関心を維持・促進するためにもとても役立つので、もし和式トイレの練習にもなるならば、一石三鳥!投資の価値あり、かと思います(娘氏の場合)。

 

→その後(4才10ヶ月時点):
・変化なし。

 

2)おねしょ1回
・相変わらず、夜の就寝時も一貫して布パンツ。おねしょは、1回。
・風邪をひいて咳が出ていたので、枕元にお茶を置いておいたら、結構飲んだっぽく、それがおねしょの原因っぽいので、以来、寝る前にたっぷり飲むときは必ずトイレに行こうね、ということにしている。
・一度、(ベットで)お茶は飲みたいけどトイレには行きたくないと言ったので、「じゃあ紙パンツで寝る?」と言ったら、「あかちゃんみたいだからいやだ!」と号泣されたので、おそらく完全におむつは卒業した様子。

 

→その後(4才10ヶ月時点):
・一度、キャンプで寝袋の中におもらししたことが。爆笑 たくさん火遊びをした晩だったので、「火遊びをするとおもらしをする」という言い伝えが一瞬脳裏をかすめるなど。笑 したがって、2年間でおねしょは通算2回。どうも、時間的に持つタイプらしく(個体差が大きいみたいですね)、そういった身体的特長に助けられ、親としてはとてもラクでした。
・帰宅後に寝袋を洗うのは、ちゃんと手伝ってもらいました!本人も大事にしているmy寝袋なんで、特に動機づけなくてもやってくれた感じ。

 

3)おもらし、たまに
・ほとんど失敗しないが、たまにする、という感じ。久々に昨日おもらししたが、前回のおもらしがいつだったか忘れるくらいの頻度。
・いずれにしても、トイレまでは到着していて脱衣が間に合わなかったパターンだけになってきているので、基本的には減っていくものと思われる。

 

→その後(4才10ヶ月時点):
・変化なし。家では全く失敗しなくなったが、たまに保育園から「おみやげ(おもらしで濡れた衣類たち)」を持ち帰る。
・この手の失敗は、いまのうちにたくさんしておいた方がいいと思うので、見守り中。

 

4)トイレに行くのがめんどくさい、という感覚の発症。苦笑
・寒いせいもあってか、トイレに行くのをめんどうだと感じていることがありありと分かる。苦笑
・トイレをがまんすると病気になるよ、ということをインプット中。

 

→その後(4才10ヶ月時点):
・そんなに、めんどくさがっている姿は見なくなったように思う。。。

 

5)身体性の拡張としての他者
・成長に伴って感じることのひとつに、自分が(まだ)出来ないことに対して本人が自覚的で、手段として他者(主に親)に依頼することで自分の目的を達成する、というプロセスについても、本人が自覚的だな、と思うことがある。召使いとも違う、機能の拝借という感じ。
・でも、自分の排泄を親に変わってもらうことは出来ない、ということを本人が理解していることが分かり、おもしろいなと思った。自分の身体性の拡張として親(の機能)を使うにしても、拡張できない部分があるのだということを、ちゃんと分かっている。ふとした会話で、「おしっこはママが代わりにしてあげられないもんね」と話したら、本人がケタケタと笑って、とても愉快そうに笑っていたので、排泄の代行を「おかしな話」として理解しているのだな、、、と思って、関心した次第。笑

 

→その後(4才10ヶ月時点):
・最近、トイレ関係に限らず、横暴に親の助けを借りようとするシーンが見られるようになった。笑 これも成長として見守りつつも、絶賛警告指導中。
・シンデレラのDVDを観まくっている時期だったので「ママは娘ちゃんの召し使いじゃないよ」という言い方をしてみたが、ピンとこなかったらしく、アプローチを変えて「○○したいのはママじゃない。娘ちゃんが○○したいんでしょ?それなのに、そのお願いの仕方はないんじゃない?」と言ってみたら、これがハマった。一瞬「あ、そっか!」という顔をしたので、納得できたらしく、以来、類似ケースはこのアプローチで推進中。本人的に肚落ちしている(っぽい)ので、「横暴な依頼」の発生頻度自体は減っているように思う。イマココ

◎トイレトレーニング雑感(2)ーーー実践編。個別ケース事例と、ラップアップ的な考察メモ。

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(写真は、トイレトレーニングが終わったころの娘氏。)

 

※過去の投稿を再掲して欲しい、という声をいくつかもらったので、ブログに転載してみます。

◎トイレトレーニング雑感(1)ーーー 「コソダテ」と「目標」の話。 - 未来を編む。blog

◎トイレトレーニング雑感(2)

◎トイレトレーニング雑感(3)ーーーその後、半年が過ぎて。 - 未来を編む。blog

 

ーーー 2014年8月の投稿を再掲 ーーー

 

大半の方には、なんの参考にもならない投稿で、すみません。自分も今後第二子のコソダテがあるかもしれないし(笑、一応、今回の観察で感じたことや、娘氏の場合の経過をまとめてみる。

 

今後、トイレトレーニング(以下TT)期を控えているオカン仲間のみなさまには、あくまで個体差があると思うのと、まったく専門外の観察による考察なので、話半分でお願いしますm(_ _)m

 

【前提としての環境づくり】ーーーーーーーー

・新生児期から、布おむつは私の性格では無理と判断し、娘氏には一貫して紙おむつ使用につきあってもらった。
・新生児期から心がけていたことは、うんちやおしっこを「きたないもの」「くさいもの」として扱わないこと。
・同じく、うんちもおしっこも、しっかり出たことを喜び、おおげさなくらいに盛り上がる。
・父母のトイレについてきたら、こばまない。
・トイレを汚いところ、として扱わない(だけど手洗いは必ずする)
 ※TTが進み、外出先でもトイレを使用するようになってからは、外のトイレは家のトイレと違うことを伝え、あまり清潔ではない可能性があることを理解してもらった(2才)
・一般的な知識として、TT開始にふさわしい時期や、その条件、一般的な進め方については学んでおいた。ただし、保育園からの配布プリントと、ベネッセのこどもちゃれんじの親向け冊子を読んだ(熟読)に留まる。

 

【全体的な流れ】ーーーーーーーー

・2歳になって間もなく(春)、卒乳と同時に紙パンツを断固拒否。突然「おねえさんぱんつ(布パンツ)はく!」と言い出した。

・身体的発達としては、セオリー的にはまだ少し早いかな?という時期(排泄の間隔がガッツリ2時間空いているかというと微妙なところ)だったので、親的にはまだ先だと思っていたところに突然始まることとなり、あわてて布パンツを買い足すなど。

 

・好奇心の対象が、おまるそのもの→おまる@リビングでの排泄→おまる@トイレでの排泄→大人トイレでの排泄、など変化しつつ、それぞれに一定量の実験が済んで好奇心が満たされると興味を失う(停滞期)の繰り返し。

・その実験の間に身体的な成長が追いついて、一定の間隔をあけた排泄が出来るようになり、量稽古で身体感覚と各種技術を体得していった感じ(秋−冬)。

 

・その後、進級をきっかけに再開し(4月@2才クラス:3才0ヶ月)、間もなく「本人の“やる気”待ち期」に突入(5−6月)。

・つまり、本人の左脳的な理解や各種技術の習得はほぼ済んでいて、いつでも卒業できる(ように見える)にも関わらず、本人が紙パンツの機能的な利便性を完全に理解しているがために、合理的選択として自宅では紙パンツしかはかない期間(「“やる気”待ち期」と呼んでみた)があったのは興味深かった。

・「停滞期」や「“やる気”待ち期」では、特に急かさず、次の3点を、機会があれば繰り返し伝えた。「紙パンツはあかちゃんで、布パンツがおねえさんなんだよ」という情報提供と、「布パンツに変えるタイミングは自分で決めていいんだよ」という自己決定の促進と、「ママ(パパ)は、娘氏がおねえさんパンツだけで過ごせるようになるのを楽しみに待ってるよ!」という親サイドの肯定的な気持ちの伝達と応援、の3点

 

・果たして、紙パンツの不都合(夏で蒸れて不快)を体験したことをきっかけに、ある日突然「かみぱんつやめる!」と宣言し、あっさり布パンツに転向。オケージョンを問わず、一気に終日布パンツ生活へ(7月:3才3ヶ月)。
・その後、1ヶ月以上が経過して、失敗していないので、ほぼ安定的に布パンを使いこなせるようになったと思われる(8月)。

 

【要素別の進み方】ーーーーーーーー
●うんち/おしっこ別の経過
・初期のうちに(2歳春)、うんちの排泄はパンツの中にしないほうが快適だと感じたらしく、紙でも布でも事前告知をして、おまる(やトイレ)でする習慣が定着し、後戻りしなかったのは楽だった。
・その意味で、うんちのTTは2才のうちに完成したことになる。その後一年間、パンツの中にしたのは、体調不良でひどい下痢だった日の1回のみ。

 

・おしっこに関しては、何度か失敗(おもらし)もしたが、なにしろ好奇心が先行しての本人の選択なので、成功確率は高かったように思う。もちろん失敗もしたが、手を焼くほどではなかった。

・本人的にも「おまるやトイレですること」への関心がマックスなのであって、気持ち的にはみすみすチャンスを逃したくないわけで、基本的に成功に向けた行動をとっているようにみえた。

・ただ、布では事前告知ができるが、紙では事前告知をしない(できない?)時期があり、その点は、うんちと違う経過だった。

 

・以下、勝手な考察。
意識的に力んで出すうんちに比べて、意識的に止めないと出てきてしまうおしっこでは、おしっこの方がTTの難易度が高いのではないか?と感じた。わたしは、うんちの方が難しいのではないか?という先入観を持っていたが、実際には逆なのではないか?と。1)「出そう」という身体感覚を掴んでから、2)「意識的に止める」という身体感覚を獲得して、3)適切な場所に移動して脱衣などして(単純な技術習得)、4)「意識的に出す」(身体感覚)、というプロセスにおいて、うんちの場合は2をショートカット出来るわけで、そのことの意味は大きいのでは?と思った。ついでに、4は生まれてからずっと訓練しているから修得済みだし、うんちのTTの方がカンタンなのかな?というのが、娘氏の場合の観察結果。

※先輩オカンから、男の子の場合はうんちのTT完了のほうが後になりがち、というお話をうかがったので追記しておきます。(男児ママへ)

 

●技術の習得:保育園ネ申!
・TTのあいだ、保育園の先生方とも相談し、自宅と保育園で足並みを揃えてもらえたのは、すごく助かった。特に、各種技術の習得にあたっては、保育園ネ申!と思った。

・たとえば、おまるやトイレにすわった時に、Tシャツの裾を汚さないように、しっかりまくっておへそのあたりで持っているのだが(その姿がまたかわいいw)、それは保育園で教わったらしい。本人的にはルーチンらしく、忘れずにやるので助かる。トイレットペーパーの切り方や拭き方も、家でも教えるが、保育園で上手に教えてくれているのが本人の理解と実践を助けているように感じた。その意味で、ほんとラクチンだった!保育園、ネ申!

・拭く時に「おんなのこはまえからうしろ。もどさない!」とリズミカルに繰り返し言いながら拭いていた。まえからうしろ、は自宅でも教えたが、フレーズにまでしていなかったので、おそらく保育園で先生が繰り返し言ってくれている言葉をそのまま覚えたのだと思われる。

・トイレットペーパーを巻きとって切ることは、現在の特訓テーマらしい。「こうやって、、、3回まいて、、、きる、、、」と何度も繰り返しつぶやきながら練習している模様。3回まいて、とか家では全然教えてないので、これも保育園で教えてくれたみたい。

 

●オケージョン別の経過
・よく徐々にオケージョンを拡大していく(室内から始めて、外出時、就寝時に拡大する)話を聞くが、本人を観察している様子では、とにかく好奇心先行型なので、布に興味があるときは「ずっと布がいい!」のであって、オケージョン別の使い分けは馴染まないのでは?と感じた(娘氏の場合)。


※保育園では、TT初期はお昼寝は紙パンツにする約束で、そこは先生がよく説明してくださるので、本人も納得して受け入れていた様子だったが、家では、好きなようにさせた。
※初期を含めて一度も「おねしょ」をしていないのだが、だから採用できた作戦ともいえる?個体差なのだろうか?謎

 

・同様に、よく推奨されている(本人の尿意の有無を問わず)起床時や食後などの機会を捉えてトイレに行くことを習慣化することは促さず、「本人が行きたいと感じた時にどうすればいいか」に特化する形式をとった。
・プロセスを本人に任せる方針にも後者のほうがマッチしたし、TTの肝は「生活シーンのなかで尿意を感じる身体感覚と意識的に止める身体感覚をつかむこと」の量稽古なんじゃないか?と感じたこともあり、我が家的には自然な選択だった。

 

・以下、勝手な考察。
なんというか、学習するポイントを絞った方が、本人の理解が進みやすいのではないかと感じたわけです。大人にとってはシンプルに思えるものでも、学習の初期段階から「場合分け」を導入するのは複雑過ぎて、本人を混乱させるのではないかと思われたので、「現象と判断と行動」を一本化したという感じ。
オケージョン別に、「起床時」と「食後」は尿意を問わずトイレに行き、そうでない場合は尿意を感じたら自ら行くという「場合分け」ではなく、「自分が尿意を感じたら、どうしたらいいか」という学習に特化した、というイメージ。
ちなみに、親側の対応についてはオケージョン別の「場合分け」をしたが、本人側からみた「判断・行動」に「場合分け」をしないように心掛けました。

 

●失敗マネジメント
・身体的な成長に、環境を合わせる配慮をした。おまるをリビングに置くことから始めたのも、効率的に歩けないがゆえの移動距離の短縮に役立った。
・どうやら「尿意を感じる→意識的に止める」という学習が最初のステップで、その状態で歩行するのは難しいだろうと思い(本人的には事前告知と同時に直立不動の段階w)、最初は事前告知を受けての抱っこ移動とし、そのうち慣れてくると事前告知と共に自分で移動するようになったので、その移動距離を最短にしておいて正解だった。
・その後、本人の関心がおまるでの排泄から離れた頃に、身体的にも成長してきたので、新しい刺激のためもあって、おまるをトイレに移動してみるなどした。

 

・また、初期は、尿意を感じてから排泄までの時間的余裕がないので、お着替えで本人がパンツをはかなければ、家ではそのままでもOKとした(季節も春夏だったし)。TT開始初期(2才)においては、「パンツを脱ぐ時間」の短縮(省略)は重要だったように思う。このわずかな時間のおかげで、失敗を最小限にして、成功体験を積むことができるわけで、その効果は大きいのではないか?と思った。(失敗の機会を奪わないことは重要だが、特にTT初期においては、成功体験を積む機会を奪わないことも大切なようにみえた)

 

・外出前と就寝前は、前回トイレから時間が空いている場合には、大人から声掛けをして、トイレを済ませてから外出・就寝をするようにした。前回トイレから時間が空いている場合に限っての声掛けなので、ほぼ100%出る。なので、一度断られてもめげずに誘い中(ただし脅さない)。そのうち、自ら予防的に行くようになったら、ステップがあがったことになるが、いまのところまだ。

・遊びに夢中になっていて、前回トイレから時間があいている場合には、声掛けはするが、本人が行かないと言えば深追いしないこと、その後失敗しても叱らないこと、をマイルールとした。

・失敗の機会を奪わず、また失敗後に恐怖を植え付けなければ、本人が失敗をケース分析して、どうすると失敗するかを理解するので、そんなに失敗を重ねないという印象を受けた。失敗すれば濡れたりして不快なのは本人だし、失敗しない方向に自然と行動していくように見えた。

 

・おもらしについては、確信犯的にしているな、と感じることもあった。なんとなく「いま、立ったまま床にしちゃいたいんだろうな、、、」という気配を感じると、案の定いたずらっぽく笑いながらやっていることもあった。一度、ベットでもそれをやられて「ママ、たいへんなことにー!(にやにや)」と呼ばれたことがある。苦笑 叱らずに「やってみたかったの?そうだよね、わかるよ!」的な対応をした自分を褒めてやりたいが(笑、その後、リビングでもベットでもしていないので、あれはやはり確信犯的な実験だったものと思われる。

※ベット事件の時は、ベットにしちゃうのは大変なことなんだ、と本人が理解しているのだな、という点に成長を感じて感心してしまったのと、言葉の選択が適切だ!と親バカ全開で感心してしまったのとw、にやにやしている感じがかわいらしかったので、叱る機会を逸した、というのが実態で、特別に優しいママンだからではありません。笑

 

・以下、勝手な考察。
一般に推奨されている、起床時や食後にトイレに行くことを習慣化するやり方は、どうも、TTで学習させるべき核心からズレているのではないか?と感じた。身体感覚として「でる」と思ってから「意識的に止める」という工程が、最も多くの量稽古を必要とするステップと思われたのだが、起床時や食後にトイレに行かせることは、その機会を減らしてしまうことになるわけで、なんとなく親視点の失敗マネジメント(失敗させない)が主軸に置かれたプランのように思えた。
基本的生活習慣(生活リズム)という意味では、起床と就寝の時間&3回の食事の時間を一定に保つだけで十分だろうし、そこに排泄を絡ませることの必然性をあまり感じなかった(娘氏の場合)。

 

【まだ出来ないこと】ーーーーーーーー
・終日、親からの声掛け無しで勝手に自己完結する状態になるのが本当のゴールかな?
・トイレの電気をつける、という工程への興味が薄れて、自分でやらなくなった(停滞期)
・トイレのドアノブが自力で開けにくいタイプなので、しばらくは様子見だが、もうすこし背が伸びたらできるかな?
・自宅では甘えたいらしく、脱衣を手伝うことが多いのだが、考えてみたら手伝って欲しいという明確な要請がある場合と、ない場合があるので、そこを見極めてから手を出すようにしたい
・トイレットペーパーを切る技術の習得には、しばらく量稽古が必要っぽい

・おまると大人トイレは気分次第なのだが、おまるでした場合の処理もおねがいしたいが、さすがにリスキーか?笑
・失敗した場合の処理工程も、可能な限り推進して欲しいので、食べ物をこぼした場合などに情報提供&機会提供中。雑巾を取りに行くまではクリアだが、過不足なく拭く、の練習中。あまり関心はないらしく、食い付きが悪い。笑

ーーー

今後、今できることが出来なくなったり、いろいろ進退があると思うけど、ひとまず、3才4ヶ月の夏の終わりの記録として。

◎トイレトレーニング雑感(1)ーーー 「コソダテ」と「目標」の話。

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(写真は、間に合わなくてトイレの前で出ちゃったときに、ついでに廊下を拭き掃除したときの、奮闘の様子。笑)

 

春ですね。

あたたかくなってきたし、進級もしたしで、トイレトレーニングを考え始めるパパママも多いかもですね。過去の投稿を再掲して欲しい、という声をいくつかもらったので、ブログに転載してみます。

 

ーーー 2014年8月の投稿を再掲 ーーー


娘氏(3才4ヶ月)の紙おむつ卒業が、どうも完了したっぽいのだが、親としては、本当にラクチンなトイレトレーニングだった。娘氏が特別にシモの始末が良くて一切の失敗をしなかったわけではなく(そんなわきゃないw)、きわめて標準的なのではないかと思う。

 

ただ、主導したのは本人であって、わたしではない、という点において、本当にラクチンだったし、ほとんどストレスを感じなかった。それで、一連のトイレトレーニングを通じて改めて再確認したことを書いてみる。

 

 

コソダテが始まった当初から、仕事とコソダテは「コソダテには目標がない」という点で「根本的に」違う、と感じていた。で、この「目標を持たないコソダテ」は、いろんな意味で効果的なのではないかと、トイレトレーニングを通じて改めて思った。

 

仕事には、目的に応じた「目標」がある。「いつまでに」「何を」「どの程度」やろうね、という目標に向けて、各種リソースの効率的・効果的な配分を考え、プロセスをデザインし、その進捗を管理し、軌道修正しながら、品質を保証し、目標を完遂して、関わる人の120%の満足に到達したいものだ、というのが仕事的日常。笑

 

成果(目標の達成)に向けて、自分がしっかりハンドルを握っている感じだ。もちろん、共に働くスタッフの主体性尊重は大前提だし、ある程度ハンドルを握ってもらう場面もあるけれども、わたし自身が、成果へのコミットメントを免除されることは、皆無(音量最大w)!!!前提として、とても楽しいものだが、同時に緊張感もあるし、それなりにストレスもある。

 

で、コソダテが始まってみて、「自分がコミットすべき具体的な目標がない!!!」ということに気づきまして、「ナニコレ、すごい気楽じゃん!!!」と思ったわけです。

 

コソダテには、まあ、目的のようなものはある。それは夫婦で合意した(娘本人とは合意していない)ゆるい基本方針のようなもので、それに基づく「目標」、すなわち、いつまでに、何を、どの程度、という成果設定は、わたしたち夫婦が定めるべきものではないなあ、という感覚を持っている。

 

で、この「目標」の無さが、わたしにとって仕事とは違うモードになれる、最大の要因でした。具体的な「成果」にコミットメントしなくていい気楽さ、というのは、実に大きくて、心からリラックスして取り組める。(・・・この感じ、わかってもらえるだろうか。。。苦笑 責任はあるけど、目標がなくて、成果へのコミットメントもしなくていい、、、この気楽さというのは、すさまじいなあと思うわけです。本人は勝手に進んでいくし、親はそれについて行けばいいわけで、非常に気楽ですはい。笑)

 

もしコソダテに「目標」的なものがあるとしたら、親の勝手な方針とは無関係に、本人が定めるべきものだろう。だから、コソダテ初期に親がすべきことは、今後本人が主体的なゴール設定(目的や目標のようなもの)を出来るように仕向けることであって、目標設定とその達成確率をあげるための直接的な支援を、うっかり親が代行してしまうことは、大きな機会損失であるように思う。コソダテ初期に、その機会を奪っておいて、学齢期にいきなり主体性や自律を求めるのは、どだい無理な話というものではないか?

 

では、自分は何をしているのか、という視点でコソダテを要素分解してみると、ひたすら本人を観察することであり、身体的な発達や好奇心の赴く様子に応じて本人がその関心を実践できる「環境を整え」たり、関心を持った内容に対する理解を助けたり興味を拡大したりするための「情報を提供」したり、ということに尽きる。

 

 

さて、果たして、トイレトレーニングもそんな感じで進められた。

 

トイレトレーニングは、とかく「目標設定」がされやすい。いつ頃始めて、プロセスとしてこんな感じのステップを踏みつつ、いつまでに卒業、といった風に。また、ハイハイやアンヨ(二足歩行)といった純粋な身体的発達に比べて、工程も複雑だし、いろいろと高度なので、親側の役割も大きいのも事実。だからこそ、親側が「目標」を設定しがちだ。

 

それで、私自身は「うっかり自分が目標を持ってしまわないように」ということを、改めて、意識的に実践してみた。これまでと同じように、娘氏についていくぞと。笑 一般的なトイレトレーニングのセオリーは一応頭に入れたが、一般よりも早くても、遅くても、特に気にせず、本人の好奇心に寄り添い、本人の向上心(新しく「できた!」を獲得することをよろこびと感じる感性を元来持ち合わせていて、そのよろこびに向かって、勝手に突進していく姿)を信頼し、ゴールまでのプロセスも、本人の意向(気分?)を尊重すると決めた。

 

すると、どうでしょう!!!

実にラクチンでストレスがないYO!!!

 

親としては突然の「布パンツはく宣言」(2歳0ヶ月)に始まり、同じく突然の「紙パンツやめる宣言」(3歳3ヶ月)で終わったという感じ。期間にすると、「停滞期」や「本人の“やる気”待ち期」などを含めて1年と3ヶ月くらい。今後も失敗することはあるだろうが、現在のところ、終日布パンツで過ごして失敗なく1ヶ月以上経過したので、ほぼ安定的にトイレが出来るようになった、と判定しているのが、いま。

 

トイレトレーニングみたいな「コソダテの難関」的な扱いをされていることでも、本人にハンドルを委ねることは可能だし、本人が自分の意志で「やめる!」と決めるプロセスは、本人を複合的に成長させるようなので(これは卒乳のときも感じた)、その「とき」を待つことは、とても重要だな、と再確認した次第。

 

以上、「コソダテ」と「目標」のはなし、おわり。

 

追伸(コメント欄への追記をコピペ):

コソダテに「目標」を持たない、ということは、逆にいうと、「こどもを大人視点でコントロールすること」を手放すことでもある。

ハンドルを、無意識のうちにわたしが握ってしまわないように細心の注意を払いつつ、危なっかしいと思っても、本人にハンドルを委ねて、同乗する感じ。目的地も、経路も、運転手である本人にお任せ。致命的な事態を避けるための危機管理はするが、多少の事故や寄り道および迷い道は見守る。ついつい効率を求めて、寄り道をとがめたくなったり、迷い道を助けたくなったりするが、その一切を手放す覚悟が必要だ。

それは、文字通り「ひたすら待つ」ことであり、口も手も出さずに「見守る」ことであって、積極的に関与できることといえば、理解を助けたり、新しい関心を引き出すための「情報提供」と、失敗を前提として、失敗の機会を奪わず、なおかつ致命的にならないような「環境整備」だけである。また、それら情報提供や環境整備に関しても、その扱いに関する判断は基本的に本人に委ねる。

その意味では、親側に「大人視点の自然かつ瞬発的な思考と行動」を封印する、ある種のアンラーン(学びほぐし)が必要なので、ハードな部分もある。

だからこそ、わたしには「自分でハンドルを握れる時間(=仕事)」が必要で、
仕事と子育ての両方があることでバランスが取れる(こどものハンドルをうっかり握らずに済む)と感じることも多い。
「自分でコントロールできる対象(仕事)」と「時間」がなかったら、
わたしは、無意識のうちにこどもをコントロールしてしまうと思う(あくまでも、わたしも場合)。

 

 

◎トイレトレーニング雑感(2)ーーー実践編。個別ケース事例と、ラップアップ的な考察メモ。 - 未来を編む。blog

 

◎トイレトレーニング雑感(3)ーーーその後、半年が過ぎて。 - 未来を編む。blog

 

◎意外なところに「落とし穴」をみつけた話。笑

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(写真は、落とし穴じゃなくて、小諸で見つけたもぐらの穴)
 
コソダテの迷走が始まったのは、娘氏が3歳半ころの、およそ1年半前。そこから遡ること1年ほど前の、娘氏2才7ヶ月時点の投稿を発見して、ある意味、わたしは全然ブレてないのだな、ということを再確認した。この時点では、ほんとに全然悩んでない(笑。そして、意外なところに迷走に向かう「落とし穴」を発見した。
 
ずばり「時間」である。
 
そうか、ここで墓穴掘ってたのかとわかって、俄然、こどもの「時間」に対する発達プロセスを知りたいなと思った次第。
 
ーーー
 
※2013年11月21日(娘氏、2才7ヶ月)のポストを再掲。
 
保育園の連絡ノートで、ここ一ヶ月ほどの間に、
娘氏が先生のいうことを聞かなかったのでこのように対応しました、
という報告を受ける頻度が急増。苦笑 現在2才7ヶ月。
 
お散歩でひとりだけ先に歩いてしまって連れ戻され「いきたかったー!」と大泣きしたり、
お昼寝がいやで布団のなかから先生に延々と話しかけて「眠れないなら隣の部屋に行ってください」といわれ「わかった」と隣の部屋に行ってしまったり、
(その後ひとりでモジモジしていると先生が「眠れそうになったら戻ってきてね」と助け舟。感謝)
保育園的に手を洗うべきタイミングで洗うのをいやがったり、
反対に手洗いをずっとしていて食事の時間になっても席につかず「食べないなら寝てください」といわれ「ねる」とお昼寝の布団に寝てしまったり、
(その後先生が「食べれそうになったら戻ってきてね」と助け舟。感謝)
 
まあ、こんな調子らしい。。
 
保育園や先生方のことはとても信頼しているので、頭が下がるばかりで、
ありがたいやら、申し訳ないやら、、、というのが前提にあるのですが、
 
同時に、タイムラインで統制された集団行動を無抵抗に受け入れるこども、
というのはどうなのか?という気持ちもあって、
先生には申し訳ないけれど、心のどこかで少し安心している自分もいる。。。
 
1歳半以降、イヤイヤ期的な言動はあるものの、
比較的ものわかりのいいこどもで、育てやすかったので、
この路線で優等生みたいなこどもになったらつまんないな、
という気持ちもあり、保育園でのこどもらしい抵抗(のようにみえた)に、
娘氏GJ!という気分になったのも事実。。。
 
現時点でのわたしの判断基準(2才過ぎからの基準)では、
・命にかかわったり、大きなケガをするリスクは当然ダメ
・朝起きる時間、夜寝る時間、ハミガキの習慣は守る
という2点以外は、基本的に本人の選択を優先したいと思っている。
 
たとえば、夏を過ぎてから、お風呂を激しく嫌がるようになったので、
お風呂もシャンプーも、本人がどうしても嫌がるのならば、省略可と決めた。
お風呂イヤイヤに対して試行錯誤の末、いろいろ考えて、
毎日お風呂に入らなくても死なないし、お風呂より睡眠が大事、と決めた。
でも、ハミガキはどんなに嫌がっても毎日やる。
 
この基準に保育園での娘の“問題”行動を照らすと、
お散歩の列を乱すのは危険なのでNGだが、
それ以外はまあ許容範囲、という気もする。。苦笑
 
とはいえ、、、未熟な母親ゆえ、
この子育て方針に確信を持っているわけではなく、
娘の言動に潜むアラートを見逃していないだろうか、、、
イヤイヤ期が極まった時期の対応として適切なのだろうか、、、
とか思ったりもする。
 
・・・もうすぐ3歳だし、洋上モンテッソーリ・プログラムに参加して、
100日ほど世界一周してこようかな。夜更けの妄想。笑
 
ーーー 引用ここまで。
 
「命にかかわったり、大きなケガをするリスクは当然ダメ」ということだけが娘氏にNGを出す際の判断基準である、というのはまったくブレがない(笑。それに加えて「朝起きる時間」「寝る時間」を重視したことが、苦労の始まりだったといまならわかる(苦笑。
 
当時のわたしに言ってやりたい。そこ、軸の取り方違うから!!!そういうことじゃなくて、どうやら、倫理/道徳について掘ったほうがよかったみたいよ!!!と、声を大にして言ってやりたい。爆笑
 
かつて、イヤイヤ期と呼ばれるものが「過去」という概念との出会いなのではないか?という投稿をしたことがあったけど、「空間」の学習に対して、「時間」の学習(時計を読むというような狭義の時間ではなく、広義の時間)というのはとても複雑で、ムズカシイことなのかもしれないなあ。ちょっと調べてみたい。

◎かなしいきもち、を学ぶには。

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※写真は、保育園の年長さんとのお別れ遠足で、縦割りグループの年長さんからもらったバッチ(左から2つめ)が嬉しかったらしく、保育園にお迎えに行ったら「パパとママのぶんもつくったよ!!」と真っ先に見せてくれた品々。一生懸命まねをして、それらしいものに仕立てていて、おどろきました!
 
 
年少さんのおわりころから、保育園であったことを、よく話してくれるようになった。
楽しかったことよりも、そうでなかった経験を、吐露してくれる。
 
○○ちゃん/くんが、□□□って言ったんだよ。
どうして、そんな、かなしいきもちになることを、いっちゃうんだろう。
 
もちろん、娘氏(年少)が「かなしい気持ちになること」を言っちゃう本人になることもあるはずで、言葉が早かったぶん、その方が多いのかもしれない。いや、きっとそうだ(苦笑。 だから、こうして自分自身が揉まれる体験は、本当にありがたい。
 
で、「かなしい気持ち」になったシーンの描写を聞くと、必ずしも自分に対して向けられた言葉ではなく、お友達がお友達に言った言葉で、自分はそこに居合わせただけ、という場合もある。少なくとも、本人の説明によれば。でも、大抵は目を赤くして、涙こそ流さないが、とてもかなしそうに目を潤ませる。わたしは、ただ受け止めるに徹する。
 
そっか、かなしい気持ちになったんだね。
悲しかったね。
教えてくれて、ありがとう。
 
抱っこしながら様子をみつつ、
 
○○ちゃん/くんは、それを言ったらかなしい気持ちになるって、知らなかったんじゃないかな?
娘ちゃんは、そんな風に言われたらかなしい気持ちになっちゃう、ってわかったんだね。
そしたら、娘ちゃんはそういう風に、言わないようにしたらいいよね。
 
娘氏は何もいわない。うなずくこともない。プラスにもマイナスにも感情を波立てている様子もない。この常套句は、おともだちとのコミュニケーションが始まった1年半前から言い続けているけど、これでいいのだろうか???
 
そんなやりとりが何度かあって、ある日、自分自信が悲しい気持ちになったシーンが吐露された。目は赤く潤んでいて、少しだけ涙が流れる。わたしは他に方法を知らないから、いつもと同じやりとり。ただ、悲しかったね、という気持ちを受け止めよう。「自分が言われてヤだったことは言わないように」とか、そういう教訓じみたことも言わずに、ただ受け止めよう。。
 
しばらくして、すっかり別の時間が流れたあとで、なんの脈絡もなく娘氏が言った。
 
○○ちゃん/くんは、かなしい気持ちになることを言ったらいけない、って知らなかったんだね。
○○ちゃん/くんのおかあさんが、おしえてあげなかったんだね。
○○ちゃん/くんは、わるくないね。
 
・・・展開がナナメ上すぎて目が点になりながら、かろうじて「そ、そうかもしれないね、、、」という言葉が口をつく。。
 
本人のなかでは納得しているようで、娘氏の悲しい気持ちは、ポジティブに整理されたっぽい、という気配を感じる。お友達のおかあさんの登場が、私的にはナナメ上すぎて消化しきれず戸惑ったが、でもまあ、おかあさんに対する敵意も、責める気持ちも感じられず、大好きなおともだちのお母さんとして相変わらず好きな人っぽいし、ただ本人のなかの論理的帰結として捉えているっぽいから問題ないだろう、、とひとまず自分の思考を落ち着かせて、本筋のところで、お友達をきらいになったりしないでよかった、と安堵した。
 
そう、あなたがそうであるように、お友達にも悪意はない。
あなたのことを嫌いなわけでもない。
大好きだけど、NGワードを言っちゃうこともあるよね。
そのことに、自分で気付けたことは、すごいことだね。
 
ーーーと思いつつ、胸にしまう。
わたしはそんなこと、こどものころには気づかなかったよ。
ようやく気付いたのは、オトナになってからだったかもしれないな。
 
 
夫が帰宅するころになって、やっぱり「おかあさんの登場」が気になって消化できなかったので(苦笑、娘氏との会話を再現しつつ、自分の見解も不安も表明せずに夫氏に報告してみる。夫氏がいうには、
 
・娘氏は、あいかわらず論理的である
・娘氏は、自分はママにおしえてもらった、と思っている
・ママにとっては暖簾に腕押しのようだったかもしれないが、これまで言ってきた常套句はちゃんと伝わっており、無駄ではなかったね、よかったね
 
という返事。ああ、そういうことなのか。。。
 
 
考えてみれば、、、
 
娘氏にとって、「かなしい気持ち」を学べる環境がようやく整った、ということなのかもしれない。ハッキリ言って、娘氏がお友達に対して不適切な発言をする方が多かったはずだ。だから、わたしは一年半前から、悩んできたのだから。でもそれは、彼女にとって必要な環境が整っていなかった、ということだったのかもしれないなあ(娘氏にとっては、同じクラスのおともだちの多くが、日常的に日本語でコミュニケーションするようになった、という環境が整ったことが最後のパーツと推測してみた次第)。
 
昨年の春に年少さんになってからは、縦割り保育の時間が増えたので、年中さんや年長さんの言動によって「かなしい気持ち」になって帰ってきたことはある。私としては、ありがたい話で、いい体験だと思っていた。いまでもそう思っているし、今後もたくさん揉まれて欲しいと思うけど、(同じクラスの)おともだち同志で体験するそれとは異質なのかもしれない、という仮説をおいてみる。
 
娘氏は、とにかく保育園が好きで、それはお友達や先生たちが大好きだから。0才から一緒のおともだちは、もう彼女の人生の大半を一緒に過ごしているし、1才児、2才児クラスからのおともだちのことだって大好きだ。で、そこには、あつい信頼が育まれている。そのことは、過去投稿の「お雛様の徒然」でわかったことだけど、その信頼は、年中さんや年長さんとの間のそれとは、質が違うのかもしれない。
 
だから、同じクラスのおともだちとのやりとりでは、本人のなかにうまれる「かなしい気持ち」も切実さが違う。だからこそ、「かなしい」の意味が身に沁みる。でも同時に、たとえ「かなしい気持ち」になる出来事があったとしても、おともだちとの間にすでに育まれているたしかな信頼が、頑丈なバンパーのように、あるいはふわっふわのクッションのように、娘氏を守ってくれているのではないだろうか?
 
娘氏とおともだちの間には、何層にも重ねられた大好きな気持ちや、仲間意識や、信頼がある。そして、それが一方通行のものではなく、双方に行き交うもので、彼女自身がたくさんの信頼や、大好きな気持ちを受け取っている。だから、おともだちとの間で「かなしい気持ち」になる出来事があっても、不信や悪意のまえに、大好きや信頼が先に立つ。結果として、「かなしい気持ち」が娘氏の心の奥底を直撃することはなく、「かなしい気持ち」をポジティブに消化するだけの緩衝材になってくれているのではないだろうか?たとえ、おともだちに「かなしい気持ち」になることを言われたとしても、そのおともだちが、優しい、楽しい、信頼に足る相手だと知っている。だから、前述のような論理展開が可能となり、ポジティブに消化できたのではないか?「おともだちは、「かなしい気持ち」になることを言っちゃったけど、知らなかったのだから仕方ない。おともだちは、わるくない」と。
 
年中さんや年長さんとは、その「十分な双方向の信頼」がないうちに、チカラによってやりこめられてしまう。この体験も必要で、意味があり、ありがたいことに変わりはないが、その場合は、学べるポイントが変わってくるのかもしれない。まだたしかな信頼を育めていない相手にチカラで押さえつけられたら、悲しいし、悔しい。もしかしたら、恐怖を感じるかもしれない。これは「かなしい気持ちになることを、他者に言ってはいけない」とは別の学習なのかもしれないなあ。まずは、悲しさや、悔しさを感じること。その無念さを味わうこと。そして、もし無念な気持ちがあるとしたら、それを向けていいのは、その無念をもたらした相手だけだ、ということ。自分に向けてもダメだし、ましてや自分より弱い相手をチカラでやりこめることで代替してはいけない。もし恐怖を覚えるのなら、身を守る術を学ぶ必要がある。
 
というわけで、「かなしい気持ちになることを、他者に言ってはいけない」ということを学ぶには、「十分な双方向の信頼」がある「対等な相手」がいる、ということが、必要な環境なのかもしれないなあ、と思った次第。
 
娘氏にとっても、わかるとできるの間には大きな谷があるのであって、まだまだ「かなしい気持ち」になることを言っちゃうこともあるだろうけど、まあ、わたしも含めてオトナにとっても難しいことだから、ゆっくり行こうぜ、娘氏よ。
 
 
ともだち同士の社会性というのは、どうやら、年中さんからの発達課題らしい。年少さんまでは、毎日遊ぶ相手が違うことが多く、年中さんからは、遊び相手が固定してくる傾向があるという。そうだとしたら、娘氏にとっては、「ともだち同士の社会性」を学ぶ前に「ともだち同士の信頼」を学べたことは、大きかったのではないだろうか?
 
一般的には、こどもの順応性は高い、という。たしかにそうだ。でも、娘氏のように「挨拶よりも観察派」で、自分の安全や安心に対して、自分が納得するまで観察しないとGOを出さないタイプの場合、この「バンパーのような、クッションのようなもの」の存在はとても大きいのではないか、と思った。
 
この春、0才から保育園に預けることを心配するおかあさんもいるかもしれない。でも、少なくとも娘氏の場合は、0才児クラスから通ったからこそ得られたものがあった、といえそうなので、個人的には「心配いらないよ、あなたがお子さんの保育環境として最適だと思える環境を選んでいるのなら、むしろプラスだよ」とお伝えしたい心持ち。

◎まさかの、カント!

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私が絶賛迷走中のコソダテ問題において、カントが助けになってくれそうだという感触を得た。夫氏推薦の「哲学用語図鑑」はたしかに良書で、哲学とは無縁だった私にも響く。すっかりカントに魅せられて「純粋理性批判」なる代表作を読みたいと思ったけど、夫氏の蔵書は難しすぎて歯がたたないと申し立てると、「カント入門」なる新書を薦められた。とりあえず目次に目を通したところでひるんでる状態だけど、でもここに謎をとく鍵がありそうだという予感だけを頼りに、なんとかがんばる所存である。読み始めたらカントの肖像画と目が合って、なんか知らんが涙でた、とFacebookに投稿したら、ともだちに「それは恋ですねw」と言われて、哲学者のおじいさまに恋する己の図に爆笑しつつ、たしかにそうかも…と思ってみたり。笑

 
わたしは、娘氏(4才終盤)の「不適切にみえる言動」に対して、何がスルーしてよくて、何がスルーしちゃいけない現象なのか、ブレない指針が欲しかった。それはどうも、倫理/道徳の問題らしく、カントが助けになるっぽい。ああ、やっとここまで来た!コソダテにムズカシサを感じ始めてから1年半もかかったよ。最初の半年は、1人で悶々とした。1年前くらいから、夫氏に何度も相談したし、本も読んだけど、私が「問題」と感じているものが複層的すぎて、明確に捉えきれなかったのだ。ここへきてようやく倫理/道徳の問題が糸口のひとつになりそうだ、という感触を得た。やっとここまで来た!ほんっとに嬉しいぜ!
 
生まれてから3歳半くらいまでは、「他者の命と自分の命をおびやかしてはいけない」ということだけが、私(と夫氏)が娘氏に求めた倫理だった。それに、最近になって「他者を自分の“道具”にしてはいけない」が加わった。この倫理を娘氏に求めることに自覚的になったのは、ほんの1ヶ月ほど前のこと。これだけでも、私はかなり楽になった。
 
 
わたしの迷走は、ちょうど1年半ほど前にさかのぼる。娘氏がまがりなりにも「日本語」を使い始め、「他者とのコミュニケーション」が始まったあたりから、急激にコソダテがムズカシイと感じるようになった。それまでは、イヤイヤ期なんて痛くも痒くもないくらいに、ある種の信念が自分を支え、迷いなくコソダテできたのに。もはや、立ち行かないのは明らかだった。
 
わたしは「言葉」に対して過敏なのだ。職業病ともいえるかもしれないが、自分の「言葉」に対するある種の厳密さが、自分を苦しめる。自分が瞬発的に発する「言葉」に必ずしも責任を持てないくせに、娘氏が瞬発的に発する「言葉」を厳密に受け取ってしまう。言葉は、本来とても不便な道具なのだ。オトナだって扱い切れないのに、ましてや語彙の限られた、思考力も発展途上の、感情さえも後天的に学ぶという説もあるくらいの幼児にとって、言葉がどれだけ不便な道具か、頭では分かっている。でも、自分の言葉への過敏さはほとんど反射的なもので、コントロールする術を知らず、感情も逆撫でられるし、無駄に心配もしてしまう。
 
一方で、職業病を持ち出すのなら、非言語の「観察」も得意なはずだ。クライアントのコトバにならないコトバを汲み取り、抽象概念を具体化して、コトを前に進めることも私の生業である。そこにはエスノグラフィー的「観察」があり、これまでのコソダテにおいては「観察」の得意に助けられた。娘氏の「非言語」の豊かな表現に、実に多くを学んだ。トイレトレーニングも、えんぴつも、おはしも、ひらがなも、娘氏をただただ観察し、娘氏の関心の所在と度合いを捉え、それに応じてちょっとだけ環境を整え、ちょっとだけ情報を与えれば、彼女は勝手にどんどん吸収する。なんの苦労もない。この手のことで叱ったことは一度もないし、迷いを感じたこともない。
 
しかし、観察対象が「言語」による「他者とのコミュニケーション」になった途端、わたしは何もわからなくなった。まるで「鳥のコトバ」を失ったニルスのように、娘氏が「非言語」によって表出している何かを観察する感度が鈍り、「日本語」として表出される「コトバ」にとらわれてしまう。わたしは「他者との(瞬発的な)コミュニケーション」が苦手なのだ。自分がわかっていないことは、手に余り、こぼれ落ちる。
 
悪いことに、そこに「社会性」や「しつけ」といった、これまた自分がよくわかっていないものが掛け合わさって、迷走が極まる。「社会性」も「しつけ」も、私は心の奥底で疑っている。そんなものいらなくね?、と思っている自分がいて、もっと言えば「社会」なるものに「適合」させてしまうことを恐れている。そのくせ、まったく不要だとは割り切れない。この振れ幅の大きい自己矛盾に疲れ果て、絶賛迷走中なのである。
 
幼児の日常には「不適切な言動」が溢れている。「ああ、そんなことを言ったら(したら)嫌われちゃうよ、、、」と心がざわつきながらも、一体、なにをどう伝えればいいのか。夫氏は「そもそも人間というものは自分と他人を区別することはむずかしいのだから、心配いらない」と言う。私のなかで混沌が極まって泣いても喚いても、一貫して「心配いらない」と言う。私も、そう思いたい。でもでも、本当にスルーしちゃっていいの?母親として、いま、この具体的機会を捉えて“教える”べきことは、本当にないの?と心がザワつく。自分が「不適切」と感じている言動は、本当に、4歳児においても「不適切」なのか?どこまでが、いまの娘氏に求めていいことで、どこからが過剰なのか?どこまでが「必要不可欠なしつけ」なのか?、なにが4歳児に求めてしかるべき「社会性」なのか?、、、わたしのなかに「不適切かもしれない言動」の個別事例を、すっきり整理できる軸がない。
 
「あなたがお友達にそう言われたら(そうされたら)、どんな気持ちがする?」「自分がされて嫌な気持ちになることは、他の人にしたらいけないよ」。これらの常套句は言い尽くした。たしかに、この常套句にはある種の真理があると思うし、これからも言い続けると思うけど、でも、わたしが求めているのは、そういうことじゃない。モンテッソーリ教室の信頼する先生が言う。「自愛が満ちれば、慈愛がうまれます。」なるほど、たしかにそうだ。ならば、さきほどの常套句は、本質的には不要のはずだ(そういえば、モンテの先生はこの常套句を使わない)。だって、常套句が教えるものは慈愛だよね。慈愛が自愛の末にうまれるものなら、こんな常套句はいらないはずだ。ならば、自愛を満たすためには、何が必要なのか。わたしが軸を間違えれば、慈愛を“教える”どころか、育まれるべき自愛さえも損なってしまうのではないか。もしかして、これまでの育て方が根本的に間違っていた、という可能性は??そんな不安さえ湧き上がる。
 
2歳を過ぎるまで、命に関わること以外は一切禁止をしなかった(もっとも、娘氏が自ら無茶をしない慎重派だったから出来たことかもしれないが)。2歳を過ぎて、最低限のマナーについては教えたが、ほとんど叱ったことはない。必要なのは説明することであり、待つことであって、叱る必要を感じなかったからだ。でも、3歳半を過ぎてから、叱ることが増えた。これまで叱られ慣れていないせいか、娘氏は「そのいいかたがこわい」と泣く。いきなり叱っているわけじゃないよね、最初は普通に優しく言ったよね、カウントダウンしても聞き分けないから叱ってるんじゃん、というのがこちらの言い分だ。しかし、号泣している娘氏に、叱られている「具体的理由」は届いていないようにみえる。これでは、自愛を損なってしまうのではないか、と叱るのがこわくなる。結果、叱るべき/叱る必要はない、の判断に迷いが生じる。もはや「命をおびやかさない」という倫理だけでは、立ち行かないのは明白なのに、自分のなかに軸がない。
 
幼児なんて、浅い視点でみたら「不適切な言動」だらけなのだ。でも本当に、それらは「不適切」なのか、いちいち迷う自分がいる。空気なんて読めなくていいし、オトナにとって「あら、いい子!」なんて方向に行かなくていいし、「常識」はうたがっていいのだと知って欲しい。歳相応の「社会性」だって、すでに身についてる。夫氏は、人間の脳の仕組みからいって「自分と他人を区別することはむずかしい」し、ましてや「他人を理解するというタスクはむずかしい」のだから心配はいらない、という。これらは、すべて真実だと思う。でも、どれも抽象度が高すぎて、日常の「現場」で咄嗟に判断する軸としては、使えない。
 
 
そんな絶賛迷走中のわたしのもとに、満を持してのカント先生の登場だったのだが、実は、その前に、いくつかのブレイクスルーがあった。何冊かの本に助けられ、尊敬する先輩オカンや、モンテッソーリの先生に助けられ、文字通り階段をひとつずつ昇ってきた感覚はある。でも、まだ問題の本質が、「肝」が、つかめていない感覚が残っていて、したがって、日常の「コソダテ現場」での迷いは相変わらず大きい。そこに、カントが現れるわけだが、その前に、もうひとつのブレイクスルーがあった。
 
ある幼児教育の専門家と出会い、私が疑問を感じているあらゆることに対して、個別相談という名を借りて、ディスカッションをさせてもらう機会を得た。曰く、うそ、いじわる、よくばり、わがまま、この4つ以外は叱らなくていい。なるほど、わかりやすい。でもちょっと待った。まだ「いじわる」だと感じたこと(娘氏の他者に対する悪意を感じたこと)はないけど、よくうそをつくし、しばしばよくばりだし、たいていわがままだ。笑 そこで、ウソについて個別具体的な事例に照らして質問してみると、わたしがモヤッとしていたウソは、問題なくスルーしていい類のウソらしい。その理由についても納得できた。なるほど!!!
 
このあたりで、わたしの脳内に明かりが灯り、ブレイクスルーが起きた。
 
「一見不適切にみえる言動」のなかに「自信を持ってスルーしていい領域」があるのならば、それを明確に掴めれば私は迷わない。そうか、わたしはソレが欲しかったのか!!自信をもってスルーしたかったんだ!!私の直感は、あれこれ言わなくていいと知っている。でも、娘氏の「決して最適ではない言動」を前にすると、心はモヤッとする。結果的には、まあ咎めるほどでもないし咎める言葉も知らないし、、、と為す術なくスルーするシーンが多く、このモヤッとがストレスだったのだ。モヤッとは不安だから。わたしが娘氏を不安視することは、きっと伝わってしまう。それが自愛を損ねやしないかと、地味に私の不安として跳ね返る。
 
うそ、いじわる、よくばり、わがまま、を自分のモヤッとしている具体的シーンに照らして、専門家とディスカッションをさせてもらえれば、モデリング出来るのではないかという希望がみえた。正直いって、社会的通念としてすでに持ち合わせてしまっている自分の感覚値では、幼児のうそ、幼児のよくばり、幼児のわがままを扱い切れないのだ。
 
このブレイクスルーについて伝えると、夫氏が言った。それは、佳美さんのなかの倫理の問題だね。カントを読んでみたらいいんじゃないかな?
 
そうか、倫理の問題なのか。そう考えると、自分のなかに「他者を自分の“道具”にしてはいけない」という倫理があり、それは自分が生きる上で、あるいは仕事をする上で、とても大切にしていることだし、夫婦で共有する倫理観でもある。そして、4才児であっても求められて然るべき倫理であろう、と腑に落ちた。もちろん「他者を自分の“道具”にしてはいけない」なんて言っても、4歳児にはわからないし、そんなことはいわない。でも、一見「不適切にみえる言動」の個別事例を観察する際の、わたしにとっての判断軸としては十分機能する。専門家のいう4分類のうち「わがまま」を因数分解すると、「他者を自分の“道具”にしてはいけない」という倫理に当てはまりそうだし、なるほど突破口が見えてきたような気がする。そう、私はこういう軸を掴みたかった。
 
かくして、カント先生の入門書の扉をあけ、哲学者のおじいさまに恋するに至る(笑。
命をおびやかさないこと、他者を自分の道具にしないこと。
それ以外に、私は娘氏に、なにを求めるのだろうか。
 
 
1年半も迷走してみて、まあ、悪いことばかりでもなかった。わたしは娘氏を根本のところで信頼しているのだな、とわかったから。娘氏の素晴らしい資質を、私がうっかり損なってしまわないだろうか、という恐れが迷走の正体らしい。私の迷走の根っこにあるのは、彼女への不安ではなく、自分への不安だったのだ。
 
迷走中は(厳密にはまだそのさなかだけれど)、自分のダメなところの鏡写しのようで辛かった。
自分が母親で申し訳ないような気持ちになったし、私の“悪影響”が娘氏に与える不都合が、不安でしかなかった。でも、自分の人生でまだ解けていない宿題に着手する感覚には、今後の人生を明るくする予感がある。
 
 
・・・正直言って、こういうめちゃくちゃ理屈っぽい話をしたためることには躊躇がある。ママ友は、なんかめんどくさい人だな、とドン引きしないだろうか。友人たちは、なんか偉そうなこと言ってるな、と思わないだろうか。先輩諸氏に、コソダテはアタマでするもんじゃない、とお叱りを受けないだろうか。でもまあ、しゃあないな、と思うに至った。こんな風にしか生きられないのに、そうじゃないふりをすることが自分を苦しめるのだろう。同じ苦しむならば、隠して苦しむより、晒して苦しんだほうがマシなのかもしれない。まあ、カントに恋するくらいだから、そもそも私はヘンジン路線なのだ。個人としてはそのように生きてきたのに、母親としてのワタシだけはフツーに、波風立てずに、マジョリティ路線で、、、というのが無理な話だったのだ。母親としても、ヘンジン路線を突き進むしかないではないか。笑