◎ママはさあ、なにになりたいの?

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昨日の自転車トーク。

娘氏(年中)に何の脈絡もなく、

「ママはさあ、パパみたいに大きくなったら、何になりたいの?」

と聞かれました。

 

「ママはパパよりも年上である」と知っているはずの娘氏に「パパよりも大きくなったら」と言われたので、身長や横幅などのことを言われているのだなと思いつつ、パパよりも大きくなるなんて大変だわよ!と、心の中でひとりで脱線しつつ(夫氏はわりと大きめです;)、「ママは、娘ちゃんと一緒に、おばあちゃんになりたい」と答えました。

 

すると娘氏は、「そうじゃなくて、夢のこと。どんなお仕事をしたいか、ってこと」と言います。・・・なるほど。大きくなったら仕事をする、という認識なのね、と思いつつ、いまの仕事は気に入ってるし楽しいから、いまのところ大きな路線変更は考えていないこと、ただもっと勉強したいと思ってるから大学院には行きたいな、と伝えました。

 

「そうなんだ。うちはねえ、まだ決められないの(楽しそうw)」と娘氏。

 

そこで「べつに、ひとつに決めなくてもいいと思うよ。2つか、3つくらいは、できるんじゃないかな?」と伝えておきました。同時期に複数の領域を跨ぐことは非効率な場合もあるかもしれないけど、10年、20年単位で時期をずらしていけば出来ると思うし、これからはそういうクロスボーダーなバックグラウンドを持つことが当たり前になるんだろうな、と思いつつ。(リンダ・グラットンさんの新著も、そんな感じのことがテーマとの認識ですが、まだ読んでません;積読ながい;読みたい;)

 

すると、娘氏は自分なりにいろいろ考えているようでした。一生懸命説明しますが要領を得ず「いまはうまくせつめいできないから、あとで、おうちでおしえてあげる」とのこと。どうも、目線が合わない自転車で、しかもクルマの騒音が激しい幹線道路沿いでは、うまく伝わらないと思ったらしいのです。

 

帰宅して聞いてみると、「月火水は3つのところに行くのね。まず、月曜日は、朝からひとつのところに行くでしょ。そのあと、別のところに行って、また別のところに行くの。火曜日も水曜日も、それと同じように、するの。わかる?」と娘氏。木曜と金曜について聞いてみると、「おやすみにする」のだそうです。なるほど。笑

 

「3日間、毎日3つの違うことをする」ということの実現可能性はわかりませんが、イメージの持ち方としては、悪くない方向性かもしれません。「将来の夢」をひとつに絞る必要はないし、もはやそういう時代でもない。ひとまず、そのことを伝えられたのは良かったなと思っています。本題ここまで。

 

 

関連して思い出したことがあるので、追記的に。

「大きくなったら、なにになりたい?」という質問を、これまでわたしたち夫婦はしませんでした。夫氏の意図は未確認ですが、私は意識して避けていたところがあって、いまでも私からそういう話をすることは滅多にありません。なんていうか、本来「自分のなかから湧き出るもの」であって、ただそれを待ちたいと思うからです。なので、もし娘氏から話題が投げ入れられれば、もちろん乗っかります。

 

で、最初に「将来の夢」的なことを話したのが、つい2ヶ月ほど前のことです。そのときは「馬の研究者になりたい」という話だったのですが、実はそれより前に、親類が集まる場での世間話的に「娘ちゃんは、大きくなったら何になりたいの?」という問いが、娘氏に向けられたことがあったことを、思い出しました。ありがちなシーンですね。笑

 

4才だったか、5才だったか、まあ比較的最近のことですが、娘氏は、イマイチ質問の意味がわからない、といった風情でした。そして、「フツーがいいよ。フツーの娘(名前)ちゃんになりたい」と言いました。それで、なるほど、と関心してしまったのです。なんというか、「どんぐり」みたいな話だなと。

 

わたしの勝手な推測なんですが、娘氏が醸し出していた雰囲気から私が感じたことは、「こどもは「どんぐり」っぽい感覚を持ってるんだな」というものでした。どんぐりみたいな、小さなツルンとした木の実から、椎や樫の大木になった姿はまったく想像がつかないけど、「自分以外のなにか」になろうなんて思わない、みたいな。

こどもって、元来そんな感じなのかもしれないな、と思ったのです。「フツーの娘ちゃん」という言葉に、確信と迫力があって、一体何を聞かれているのかわからない、、、という様子だったので、そんな風に感じたのだと思います。わたしの勝手な推測ですが、その調子でいってくれ、と思った次第です。

で、さらにいえば、いまの時代、どんぐり=椎とか、=樫のように、「たったひとつのなにか」じゃなくていいんじゃないかなと。最新の「どんぐり」は、複数のものになれる可能性を秘めた種なんじゃないかな、、、と、昨日の自転車トークで思いました。

◎けっこんできる?

ちょっとした家族の雑談で、ドラえもんのキャラのなかで誰と結婚したいか、という話になった。娘氏(年中)は、ひとしきり考えて「女の子とも、結婚できるんだよね?」と聞いてきた。夫氏と私はほとんど同時に「できるよ」と応える。
 
娘氏は、パパママがそう応える、ということはおそらくわかっていた。でも、保育園では「おんなとおんなはけっこんできない」と言うお友達がいることも、わかっている(以前そんな会話があったらしい)。まずは、両方の考えがある、というのを知ることからしか始まらない。そのあとで、どちらの考えを支持するかは、自分で決めればいい。
 
娘氏としては、のび太はのんびりさんだし、ジャイアンは乱暴だし、スネ夫はお金持ちだけといじわるだし、出来杉君もちょっと違う、というわけで、強いていえばしずかちゃんだろうか、でもちょっと違う、ということだった。
 
夫氏が、「ドラえもんは?」と聞くと「本当はドラえもんと結婚したいけど、ドラえもんはロボットだから結婚できない」と娘氏。夫氏が「そうかな?ロボットとでも、結婚できるんじゃない?」と言ったところで、この会話は収束に向かう。たしかに、いつかロボット(というかAIかな?)と人間の結婚が議論される日が、本当にくるのかもしれないな、と思った。
 
 
※おまけ
話の流れとして、夫氏が「パパとは結婚したくないの?」と水を向けると、「パパとはけっこんできないもんねえ」と年中女子に冷静に切り返され、いよいよ「パパのおよめさんになるの!」的なワードを聞くことは出来ない可能性が高まりました。笑

ちなみに、最近寒いので、娘氏が寝かしつけ担当にパパを指名することが増え、天然ゆたんぽとして娘氏から愛されていることを記録しておきます。

◎にんげんのさきっちょのさきっちょ

ある冬の寒い日、娘氏(年中)と自転車に乗っていたら、突然話しかけられた。まあ、いつものことだ。
 
娘氏「ねえ、ママ。にんげんのさきっちょのさきっちょには、“くろいせん”みたいなものはあるの?」
 
わたし「さきっちょのさきっちょ?くろいせん?」
 
娘氏「そう。妖怪ウォッチのケイタとかは、さかいめみたいなところに、くろいせんみたいなものがあるでしょ?うち(自称)は、それが、にんげんにもあるのかどうか、さきっちょのさきっちょを、ずうっとみてるんだけど、わからないの」
 
わたし「ああ、なるほど。へえ、おもしろいことに気付いたね。アニメとかぬりえとかには、黒い線が必ず描いてあるもんね」
 
という会話をした。娘氏はなにしろ自転車が好きで、長距離の自転車移動をよくリクエストされるのだけど、後部座席でそんな時間を楽しんでいたのだと知って、週に一度の、片道40分の、修行のような自転車移動も、報われたような気がした。
 
その質問に対して、わたしは「黒い線」があるとも無いとも言っていないけれども、数日後に、「さきっちょのくろいせん」の話はどうなったのか聞いてみたら、
 
娘氏「ああ、それはもうかいけつしたからいいの。にんげんには無いってわかったの。でも、モノにはあるのかどうか、それがわかんないんだよねー」
 
と言っていた。わたしがその「黒い線の違和感」に気付いたのは、オトナになってからで、20代に「ひとり文化部活動」と称して、舞台や博物館、美術館の類に足繁く通った期間があり、そのときに初めて気付いたことだったので、娘氏の疑問の持ち方を、純粋にすごいなと思った。
 
娘氏は、ドラえもんを筆頭に、ジブリアニメ、ぬりえなど、2次元コンテンツはとても大好きで、たくさんたくさん触れている。親としては制御に困るほどに。笑
 
でも、もしそういったものを禁止していたら、「さきっちょのさきっちょのくろいせん」について違和感を持ったり、ギモンに感じたり、自分の頭で時間を掛けてあれこれ考えたりすることもなかっただろうと思う。そう考えると、対象がどんなものであれ「こども自身が夢中になる」ものには、必ず学びはあるのだなと、改めて思った。
 
ーーー
 
関連して、ひとつおもしろいな、と思ったこと。
 
これは私の仮説に過ぎないのだけど、妖怪ウォッチの映画が、娘氏の「さきっちょのさきっちょのくろいせん」という疑問を顕在化させたのではないか?と。娘氏が具体的な例にあげたのが、ケイタだったから、そう思ったわけです。一番大好きらしいドラえもんでも、最近ご執心のプリキュアでもなく、妖怪ウォッチのケイタを引き合いに「さきっちょのさきっちょのくろいせん」を説明した。(関係者のみなさま:映画を観に行くくらいですから、娘氏は妖怪ウォッチももちろん好きです^^)
 
しかも、この冬の「映画妖怪ウォッチ」は、「アニメの世界(当然二次元)」と「毛穴の世界(実写)」が交錯する、という企画。12月中旬に映画を観て、年末に「ねえ、ママ」の場面となったので、多少のタイムラグがあるのだけど、私の仮説では、日ごろから娘氏の脳内に小さく積み上がっていて、自分でも言語化できていなかったけど、ボーッと考えたり、なにげに観察したりしている「ふしぎのたね」のようなものを、あの映画がつないでくれたのかもな、と。
 
二次元のコンテンツとして慣れ親しんだものが実写になると、一定の違和感がある。それを同一コンテンツ内で行き来するとなれば、なおさらだ。同じモノのはずなのに、どうしてこんなに違って見えるのか、なにがどう違うのか、考えるともなく考える。そんな時間を、楽しんだんじゃないかな?と思った次第。
 

◎みているひとは、しらべるひと。

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 (愛読書をトレーシングペーパーでなぞる遊び)

 

娘氏(年中)はNHKダーウィンが来た!」が好きで、たびたび観たがるので録画している。で、「ダーウィン」を観た日は、必ず「ダーウィンごっこ」をやるのが恒例で、夫婦に何かしらの配役が与えられる、という展開に。まあ、配役に関する拒否権および交渉権はあるが、ごっこに参加しない、という選択肢が認められることは、ほとんどない。笑

 

先日、ヒョウの親子がテーマだった日もご多分に漏れず、ヒョウ役はもちろん娘氏で、獲物役と天敵役が夫氏。私に与えられた役どころは、驚きの「みているひと」だった。笑 実はこのとき直感的に、娘氏の言う「みているひと」は、視聴者的なものではなく、番組内に登場する研究者のことではないか?と思ったのだが、すでに娘氏はヒョウになりきっていたので、質問するのはやめて、私は「みているひと」の役作りを勝手に進めることにしたのだが、特に娘氏も不満はなかったようで演技指導は入らなかった。笑

 

で、数日後。寝る前の絵本を選んだところ、絵本3冊+愛読書(絵でわかる馬の本)という構成。愛読書はもう数え切れないほど読んでいて、私でさえ、章立ても内容もほとんど頭に入っているような状態なのだが、この日「獣医さん」のページを読んでいるときに、ふと「動物のお医者さんになりたい?」と聞いてみた。最近、愛読書のリクエスト頻度があがっているので、なんとなーーーく。

 

すると、ニッコリしながら首を振る。ニッコリしているということは、なにか代案があるのだろうか?と思って聞いてみると、「どうぶつのけんきゅうしゃになる」と言った。ほう。娘氏が、将来の職業的なコメントをしたのはこれが初めてのことなので、おもしろいなと思って、ちょっといろいろ聞いてみることに。

 

娘氏:どうぶつのけんきゅうしゃになる!

 

わたし:へえ!たのしそうだね!研究者って、ダーウィンでずっと動物を観察していた人のこと?

 

娘氏:そう!

 

わたし:(やっぱり「みているひと」は研究者のことだったんだ!)そっかー。パパはね、大学院のときに、虫の研究してたんだよ。

 

娘氏:えっ???それは、ほんとうのこと???

 

わたし:(すっげー食いつきwww)うん、ほんと。明日、パパに確かめてみたら?

 

娘氏:うん、きいてくる!!ママもきて!!いっしょにきこう!!(と寝室を飛び出す)

 

わたし:(あ、いまなんだwww)う、うん。。。


というわけで、夫氏から「虫の研究をしていたのは本当」という言質を取って、「わたしは、おうまさんのけんきゅうをするの」と伝え、とりあえずは満足したらしく寝室に戻った。爆笑 なにげに「どうぶつのけんきゅうしゃ」から「おうまさんのけんきゅうしゃ」に変わってたけど、まあそこはスルーして、さらに質問してみることに。

 

わたし:ねえ、娘ちゃん。研究って、どんなことするんだろうね。

 

娘氏:しらべるんだよ、いろいろ。かんさつしたりとかして。

 

わたし:ふーん。たのしそうだね。ねえ、こないだダーウィンごっこしたときさ、ママは「みているひと」だったでしょう?あれは、ダーウィンにも出ていた、ヒョウを研究してたおじさんのこと?

 

娘氏:そうだよ。ねえ、うまのほん、よんで!!!


という展開で、話題終了。笑 やっぱり「みているひと」は研究者のことだったんだ。真っ暗闇の現場でプロのカメラマン並みのごっつい望遠カメラを使いこなして、取材にもこたえていたおじさん。厳しい乾季に見舞われた年、例年以上に餌がなく、その結果として、ヒョウのこどもがナマズを食糧に出来ることを発見して、種として持ち合わせている水への恐怖を克服しながら、ナマズの狩りの仕方を開発していく姿を捉えたのは、大発見だったらしい。それはヒョウのこどもの好奇心によって成し得たことで、最初にナマズを発見した母ヒョウには出来なかったこと、と解説していた。「ダーウィンが来た!」には、かならずテーマとなる動物の研究者が登場するのだが、そういった演出によって、娘氏は「研究者」の存在を知り、自分なりに理解したのだと思うと、改めていい番組だと思う。

 

それで、思い出したことがある。数日前のこと、娘氏が「ちょっと歯が痛い」と言い出した。確認してみると、下の歯がすこーーーしグラグラし始めているような感じ。保育園の年中クラスのお友達に、もう乳歯が3本も抜けた子がいる(!)こともあってか、娘氏が歯が抜けることへのあこがれを持っているらしいことは、わかっていた。

 

娘氏に、もしかしたら歯が抜ける準備が始まったのかも?と伝えると、めっちゃ嬉しそうな顔で笑う。それが、私の想像以上にめいっぱいの笑顔だったので、とても印象に残った。私自身のこども時代は、そんなに歯が抜けるのが嬉しかった記憶はなくて、むしろなんとなく痛いし嫌だったような気がするのだが、わかりやすい成長実感を得られるのが嬉しい、みたいなことなのかな?と思って聞いてみると、娘氏のリアクションが想定外すぎた。笑


わたし:歯が抜けるって、お姉さんになるみたいな感じがして、うれしいの?

 

娘氏:ちがうよ(キッパリ!) はがぬけるって、どんなかんじなのか、かんさつできるでしょ。それが、ちょーーーたのしみーーー!!!(満面の笑み)

 

わたし:あ、そうだったんだ。それは、たのしみだね(・・・ナナメ上すぎて想定外w)


というわけで、娘氏が、はじめて将来の夢っぽいことを口にしたのは「馬(動物?)の研究者」でした。ごっこ遊びの「みているひと」が「研究者」のことで、「おうまさんの研究者になりたい」と言い、乳歯が抜けるのが超楽しみなのは「歯が抜ける様子を観察できるから」と言う。これだけリンクすると、娘氏はほんとに研究者に向いてるのかもしれない、と思う。


追記:
歯が抜けることへの娘氏のワクワクについて、夫氏に共有。私が「成長実感じゃないらしいよ、なんだと思う?」といったら、こともなげに「歯が抜ける様子とか、観察したいんじゃない?」という夫氏。「え、乳歯の生えかわりへの反応として、それって一般的なの?」と返したところ「少なくとも、2/3だね」といわれ、アウェイ感を噛み締めるw

◎コソダテに関する、娘氏からのフィードバックのようなもの。

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(帰り道、「走りたい!」というので公園に寄ると、まあ私も免れるはずがなく。芝生だったので、裸足になったら気持ちよかった。ときどき、足元を見つめる時間は必要かも。)

最近、ふとした日常の、どうってことないシーンで、娘氏(5才・年中)が発した何気ない言葉や態度に、報われたような気持ちになったことがあったので、記録しておく。

 

1)ごっご遊びにて。

親子で“ごっご遊び”に興じていたときのこと。シーン設定から配役まで、娘氏主導で決定されるのがデフォルトで、この日はお寿司屋さんだった。夫氏がお客さんで、娘氏と私がお店の人。かつ、娘氏と私は親子で、娘氏が母親役、私が娘役という設定らしかった。わたしは、ごっご遊びの最中の娘氏の何気ない発言に、とても報われたような気持ちになった。

 

娘氏(母親役)は、お客さんである夫氏に呼ばれたので、まずは話を聞きに行った。内容は、私(娘役)への依頼事項だったらしい。すると、娘氏(母親役)は「おはなしはわかりました。それは、ムスメにきいてみなければわかりませんので、ちょっとおまちください」と言ったのである。

 

母親に伝えられたムスメへの依頼事項に対して、母親が判断を代行しない、という姿が、本人にとってアタリマエのこととして表出されていたように感じて、私はとても報われたような気持ちになった。それは、娘氏が0歳時のときから、私自身が肝に銘じてきたことだったから。日常の、本当に小さな小さなワンシーンの積み重ねでしかない。結果として、自己主張が強すぎる子ども(苦笑)になっている気がしたこともあって、これまでのコソダテが根本的に間違っていた可能性を内省したこともあったけれど、このお寿司屋さんごっこで「ああ、これで良かったんだな…」としみじみ思った。自分で判断できる、ということも大事だけど、他者の判断を尊重できる、ということも大事。それが出来るなら、大丈夫だね。

 

2)ヒタスラ待つ、について。

最近、仕事が忙しくて、夕食後にパソコンに向かうことがある。娘氏が一人遊びを始めたのを見計らって、その脇でPCを開く。家では、娘氏が起きている時間帯には仕事をしないようにしてきたので、娘氏は、ママはよっぽど仕事が忙しいらしい、と思ってくれているのかも?、、、しれない。

 

気がつくと、いつの間にか一人遊びは終わっていて、ごっご遊びに誘いたい雰囲気を醸し出している娘氏。キリのいいところまで終わらせたい私は、話し相手をしながらも、仕事の手を止められない。結局、この日は1時間も待たせることになったのだが、娘氏は怒ることもなく、急かすこともなく「おしごとがおわったら、おうちごっこしよう!」と待っていてくれた。その間、何度もこちらの様子を見て、少しだけ誘う。仕事のジャマにならない程度のセリフを与えられたりして、娘氏のなかでは、少しずつごっご遊びは始まっているらしいが(単に我慢するだけでなく、自分のニーズも叶えつつ、折り合いをつけている)、仕事が終わるまでの間は、私の関与を最小限にしながら、待っていてくれた。それも、2日連続で。(さすがに、3日目は仕事をしないようにした;苦笑)

 

実は、この「待つ」ということも、0歳の時からずっと、修行のようにヒタスラ心掛けてきたことだった。もちろん100%できていたとはとても言えないけど、本人にとってやりたいことや、やるべきことは、出来るだけ本人のペースを尊重して、ヒタスラ待つ、という役割を自分に課してきた。思い掛けず長丁場になってしまう場合も、途中で何度か声を掛けたり、こちらの都合や希望を伝えたりもするが、状況が許す限りにおいて、基本的には急かさない、、、ように心掛けたつもり。。。

 

そしてこの日、仕事に向かう私に対して、娘氏がそれをやってくれたような、、、気がした。都合のいい思い込みかもしれないけど、これまで、修行のように「ヒタスラ待つ」という役割を自分に課してきたことが、報われたような気持ちになった。

 

同時に、「ママが仕事をする」ということが、娘氏にとってマイナスなイメージではなく、応援するもの・サポートするもの、として扱ってもらえたような気がして、これまた報われたような気持ちになった。まあ、夕食後の時間に仕事を持ち込まなくていいようにマネジメントしろよ、という話ではあるんで、“家残業”は自粛しようと思ってますが。苦笑

 

 

どちらも、娘氏の言動に対する私の勝手な解釈で、本人にどんな意図があったのかは、きっと一生わからないのですが、少なくとも、報われたような気持ちになれた、というのは励みになる。有り難いフィードバックだったなあ、と思います。

 

◎なんだ、それをさきにいってよ。

 

 

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昨日は、NPO法人クロスフィールズの初の書籍出版を祝う、出版記念パーティでした。ごくごく内輪のパーティで、お世話になっている方々に金曜夜にオフィスにお集まりいただくスタイルだったので、子連れで少しだけ顔を出す予定にしていたのだけれど、その、子連れ参加にまつわる、ちょっとおもしろかった話。

 

数日前から出版記念パーティの話題を伝えておき、当日の朝「今日は保育園が終わったら、一度家に帰ってお着替えして、一緒に大地くん(一緒にキャンプなどに行っているので娘氏も知っている)のところに行こう。あんまり長居せずに、顔だけ出して帰る予定だよ」と伝えると、「わかったー」と言って夫氏と保育園に出掛けて行った。

 

で、保育園からの帰り道。自転車の後部座席から「ねえママ、かおをだすってどういういみ?」と聞かれた。「あー、そっか、慣用句は難しいよな」と思いつつ、それがこれから行く予定のパーティ関連の話題だということに気づくのに、若干時間を要した。

 

説明すると、突然「娘ちゃん、いきたくない」と目に涙をためて言うではないか。キタコレな、急展開。笑 「はずかしいし、こわいような気がするし、おうちに帰りたい」とのこと。「一旦おうちに帰る予定だし、落ち着いてからの出発でいいよ」とお茶を濁す。内輪のパーティだし、まあ別に行かなくてもいいのだけれども、3年越しの仕事だし、いちおうCommunication関係の理事だし、ねぎらいたいし、ご挨拶しておきたい方もいるし、まあ、顔出しておきたい、というのが、私の気持ち。18時から21時までのパーティだから、19−20時くらいに行く予定でいたけど、まあ閉会までに行ければいいか、、、と脳内スケジュールを書き換える。。

家に帰ると、持参する予定だったおにぎりを食べることになり、その勢いで夕食に突入。前日に観ていたメリー・ポピンズの映画の続きを観て、お気に入り映画なので、気分は上向いてきた様子だが、パーティに行ってくれそうな気配はなく、20時の声をきく前に声を掛ける。

 

「ママ、そろそろ行かなくっちゃ」というと、不服そうではあるが、グズることもなく、すぐに「はーい」と立ち上がってくれるではないか。で、ここからの展開が意外すぎた。

 

娘氏:大地くんのおうちに行くの?

ママ:違うよ。大地くんたちの会社に行くんだよ。そこでみんなでパーティしてるの。

娘氏:なんだ、それをさきにいってよ。

ママ:え?

娘氏:(超スッキリした顔で)かいしゃなら、おしごとじゃん。おしごとなら、いかなきゃだめじゃん。(自らどんどん手早く支度するw)

 

どうやら、「パーティ」という言葉のイメージから、おともだちの誕生会みたいなノリで、プライベートのお祝い的なものが想起され、自宅でワイワイやるものだと思っていたらしく、したがって参加は義務ではない、というイメージだったらしい。たしかに、娘氏は、あんまりワイワイしてる空間が得意じゃないらしくて、パーティとか、あんまりよろこんで行きたがらない。そっかー、そこだったのかー。笑

 

かくして、さくっと支度が終わって、さくっと会場入りして、後半戦に無事参加できたわけだが、プライベートのパーティには行きたくなくて、目に涙を溜めて抵抗を示すが、「会社」でやる「仕事」であればさくっと協力してくれる5才児に育っている、ということがわかった。。。笑

 

これは、娘氏的にはどういう感覚なんだろうな。。ママには仕事があって、それは「やった方がいいこと」である、と思っているらしい。それをサポートすることは、自分にとっても別にイヤなことじゃない、らしい。ちなみに、みんながワイワイと大騒ぎになるパーティはあまり好きじゃないらしくて、そんな感じのパーティに行くよりは、ママの仕事についていった方がいいらしい。結果的に、かなりワイワイした感じのパーティだったわけで、シチュエーションとしては自宅のパーティと変わらないと思うんだけど、この点は、どのように処理されているのだろうか?(謎)

 

もしかして、、、集団から外れる余地について、「会社開催>自宅開催」という感じでパターン認識してるのかしら???カオスが苦手で、集団のなかにあっても“誰にも干渉されない自分の時間”が保証されることにしあわせを感じるタイプっぽいので、会社の方が、その“安全地帯”を確保しやすい、というイメージを直感的に持っている可能性。。。いや、完全に妄想ですが。。。

 

実際の様子としては、最初に少し果物など食べさせてもらったあとは、部屋のすみの椅子で、黙々とぬりえに興じており、わたしはずっと大人の会話。かなり混みあった立食形式だったので、一応、娘氏の視界からは出ないようにしていたものの、大人の会話はフツーにできて、助かった。娘氏が周囲の喧騒をよそに、ひとり黙々と集中して塗り絵などに集中する姿は、本人にとってハッピーな時間であることはわかっていたし、わたし的には自然な姿だったので何とも思わなかったけれど、まわりのオトナは必ずしもそうではなかったみたいで、「おとなしくしてるね、こういう環境に慣れてるの?」と聞いてくれたり、「娘氏が楽しめているか?」とケアしてくださる方が、複数人いた(いま改めて思い出すと、有難すぎて泣けてくるなあ。みんな、なんて愛情に溢れたオトナたちなんだろう。涙)

 

そっか、、、考えてみれば、会場入りしてちょっとフルーツを食べたら、自ら「塗り絵やりたい」と申し出たので、場所を確保したわけだけど、私から「そろそろ塗り絵にしたら?」とか、「おとなしくしていてもらうために促す」みたいなことは、まったくしていない。そういえば、これはいつもそう。まあ、裏を返すと、カオスが苦手で、自分だけの「落ち着いた時間」が娘氏にとっての生命線。周囲がどんなに騒々しくてもお構い無しで、黙々と手元に集中できるのは、たぶん才能なんだろうな。そして、その才能にわたしは助けられ、ママの仕事をサポートすることと、自分の快適を両立させる術を、いつの間にか身につけてくれていたんだな。。

 

というわけで、「仕事」だとわかった瞬間からの娘氏の豹変ぶりが興味深かったので、記録。書いているうちに、いろいろ思い出したり、思考が進んだりして、単なる記録のつもりが、意外な展開になりました。笑

 

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 (到着早々、ママのおともだちが、果物をたくさん持ってきてくれて、おいしいブドウにご満悦の娘氏。こうして、周囲がさらっと自然にこどものケアをしてくれる風景に、改めて有り難さを噛み締めました。)

追伸:
そうそう、クロスフィールズ初の書籍出版、なかなか好評ですので、どうぞご笑覧くださいませ!

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◎つながっている、について。

 
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祖母の一周忌で、実家に帰った。
金曜の夕方から土曜の夜までの弾丸だったけど、いろいろと濃い帰省となったので、簡単に記録。
 
 
>家系図
なぜか、母が「岡本家」の家系図を徹底的にしらべあげてくれていて、父方、母方のルーツを明らかにしてくれていた。母らしい丁寧な字で清書された、見事な家系図で、父方・母方双方に、7世代ほど遡っていた。スゲー!!!
 
その裏には大変な労力が費やされていることは一目瞭然だったので、動機やらプロセスやらを聞いてみると、「ご先祖さまの存在について、ちゃんとしておきたい」と思ったらしく、おともだちのご紹介で、家系図づくりについて教えてくれたり、一部代行してくれたりする“お教室”に通ったらしい。実は私も、三年前に父が亡くなり、昨年祖母が亡くなったことで、自分のルーツについて何かしらの情報収集をしておかないと分からなくなっちゃうな、、、と“ほんの少しだけ”思っていたので、母による大作にとても興味を持った。 
 
母は「仏さんのこと」をだいじにする人なので、先祖の供養とか、命日とかをとても大事にするし、お仏壇への水や食事、お花の上げ下げ、お線香をたいてのご挨拶など、文字通り一日も欠かさずに、必ずやる人。その流れで、ごくごく自然の興味というか、自分がなし遂げるべきこととしての義務感のようなものがあったらしい。
 
私的には、まず“教室”があることに驚いたので、そこで何を学んだのか聞いてみると、キリスト教の原罪の話になった。母はミッション系の女子校だったので、一定のキリスト教教育は受けている。神、天使、人間、禁断の実、原罪、夫婦、家族、兄弟げんか、、、その文脈の系譜として、家系図を教えるらしい。自分を起点にして、キリストまでつながっているのだ、という前提。それもすごい話だな、と素直に思った。そういった価値観が細胞に染み付いている人がいる、ということはアタマではわかっていたけれど、「自分の家系図」というリアルなアイテムを目の前にすると、インパクトが違った。
 
自分が存在するためには、生物学的な父と母が必須。決して、自分一人で存在(誕生)することは出来ないという事実と、先祖の存在。そのつながり。宇宙の果てと同じように、そのつながりは延々と追いかけることができるはずで、その行き着く先はどうなっているのか。原点があってもなくても、あまりそのこと自体には興味がないのだけど、「自分一人では存在できず、延々とつながる関係性がある」という事実について、改めて考えさせられた。解はなし。
 
 
>曽祖父の写真、祖父の写真。
曽祖父が、実業家で成功した人だとは聞いていた。財を成して日本に帰り、地元の神社に大きい鳥居を寄贈したとか、そんな感じの人。母によって、その写真がたくさん焼き増しされていたので、もらってきた。前列中央の白いスーツを着た人が曽祖父。パナマって、どこだ???祖父は、パナマで生まれている。もしそのまま帰国しなかったら、わたしは生まれていない。
 
そして、祖父の写真は、軍服を着ていた。実は、その軍服の一部を、わたしはリアルに見たことがある。それらを小学生だった私に見せてくれたとき、寡黙な祖父は一体なんと言っていたか。。思い出せない。

小学校の宿題で、戦争のことを調べてくる、というのがあった。まずは、幼少期に戦争を体験している父にヒアリングして、いろいろ聞いた。具体的な戦争体験のシビアな話もあったし、敵国語が禁止されて、カレーライスは「辛味入汁掛飯(からみいりしるかけめし)」と言ったとかいう、こどもなりに興味を持ちやすい話題もあった。
 
その流れで、父が、祖父は戦争に行っているから、話を聞いてみてはどうか?と、クルマで20分ほどの母の実家に連れて行ってくれた。夏休みではななかったはずだから、フツーに平日だったのだろうか?(謎) 孫の宿題とあって、押し入れの奥から、いろいろ出してくれた。ゲートルという「丈夫で大きな包帯」のようなものがあって、それを靴下のように膝下に巻きつけるという話を聞いて、「意味がわからん」と思ったのを覚えている。水筒もあった。当時の私には、この水筒が唯一の水分だったことのリアリティは、まったく想像できなかった。祖父は、どんな思いで、あれらを取っておいたのだろうか。祖父は、それらを前に、わたしに何を伝えてくれたんだっけ?ゲートルの衝撃にかき消されて、忘れてしまった。
 

 写真を世代で追えば、次は母となり、私となり、娘氏となる。母の写真は、どんな写真になるのだろうか?それは何を物語る?そして、私は?

 

>お盆と神話

祖母の一周忌での帰省だったので、お寺さんで読経などしてもらう。もろもろの法事が終わって、お茶の時間になると、いつも、お坊さんが家族に混じっていろんな話をしてくれるのだけど、今回の話題を要約すると、「人間が社会的な動物であり、決して、1人では生きられない」という話だった。ちょうど「人の関係性と、その依存関係」について深く考えるプロジェクトの真っ最中だったので、刺さった。そして、プロジェクトメンバーが「このプロジェクトの思想は仏教的だ」と言っていたのを思い出す。

 

また、お盆という風習や、神話についても少々。「日本では、お盆にご先祖様が帰ってくる、ということになっているけれども、本当のところは、私(お坊さん)にもわからない。でも、ご先祖様が帰ってきていると思って、振る舞うこと、に意味がある」と。「そんな国は、そうそうないですよ。なかなかいい国だと思います」と。どういうことなのか、ちょっと考えてみたい。

 

あの世、この世。かつては天国も地獄も、“この世”と“地続き”で自由に行き来できたのが、出来なくなった、という神話の話。神話の正当性や、信憑性は一旦横において、こういう、常識的な考え方からかなりズラされる視点を投げ込まれることは、個人的に好きなので、いろいろ考えることになった。人間が一般的に持っているとされる「死」への恐怖心は、何のためにあるのだろうか?もし本当に地続きだったなら、そういった恐怖は生まれなかった(必要なかった)はず。「死」への恐怖があることで、何がバランスしているのだろうか?

 

夏風邪で休んでいたとき、娘氏が「しむ(しぬ)のがこわい」と言った。わたしはこどもの頃から、あまり「しぬのがこわい」と思ったことがなくて、リアルにはその恐怖をわかってあげられないのだけれども、「この風邪でしんじゃうことはないから安心して大丈夫だよ」と言って、抱っこした。娘氏は、ひとまず安心した様子。私にとっての死への恐怖は、夫氏や娘氏といった、かけがえのない存在のソレ、こそが恐怖であり、自分自身の死ではない。この(自分自身の死に対する)感覚は、私のなかでは、初産の妊婦にとっての陣痛への恐怖と同じで、1)自分自身としては未体験ゾーンではあるが、2)どうせ避けられないとわかっていること、3)陣痛があることに意味があり無いと逆に困る事案であること(≒死なない方が怖い)、4)すでに大多数の人が体験済みのこと、であるからして、まあ多少のドキドキはあるけれども「考えても仕方ない案件」かつ「まあナントカナル案件」として処理されている。大雑把すぎるのだろうか?

 

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結論のない、夏の日の記録。